最後の関東軍

愛媛県日中友好協会理事長Nさんの口から、横道河子の地名を聞いたときは少し驚いた。

                         望楼の跡にて  陳来友さん

 横道河子は、牡丹江の西30キロ。牡丹江盆地とハルピンに境する山脈の麓、いまではロシア人の屋敷跡などが残る観光地だが、交通の要衝でもある。

鶏西から引き揚げた義母が、横道河子で兵隊さんと手を振って別れた話をしていた。そして「あの人達はどうしているかね。」と言っていた。兄をシベリヤで亡くした義母は、この人達に強い関心を抱いていた。

 

 今度父の最後の勤務地鶏寧を尋ねるにあたり、なにかの手掛かりと思ってNさんからも色々とお話を伺った。

 Nさん当時19才。繰り上げ召集で、特別幹部候補生として牡丹江で荒木大隊に所属していた。

 8月9日  ソ連参戦 

 8月11日 非常呼集、臨戦態勢

 8月13日 牡丹江で戦闘開始

       ソ連軍は、南は石頭、東は磨刀石から進入

 8月17日 横道河子で武装解除

       8月15日の終戦は、指揮系統の乱れで知らなかった

 

 鶏西に行く高速道路の途中に、磨刀石の地名が入った料金所がある。窓から写真を撮ったのだが、なだらかな丘陵、柳等の樹木、唐黍、向日葵、があるだけ。この辺一帯の同じ景色で何の変哲もない。

 鶏西からの帰り、牡丹江で少し時間が出来たので、行って見ることにした。

 

 「中国銀行に寄って、磨刀石に行ってくれ。」とタクシーの運転手に言うのだが、何度言っても通じない。やっと通じたようなので、私も不機嫌に

 「俺の発音そんなに悪いか?」と言ったら、

 「銀行は何しに行きますか?」

 「換金」

 「磨刀石はなんの御用です?」

 「古戦場を見に行く」 

「そうだったのですか。私は銀行と磨刀石の関係がどうしても分からないので、聞き間違いかと思いました。あそこは何も有りませんよ。」

「友人が昔関東軍の兵士で牡丹江にいた。この辺で何でもいい建国以前の古い建物があったら写真に撮りたいので教えて欲しい。」

「私も詳しくは知りませんが、牡丹江に掛かっている古い方の橋のたもとのトーチカは間違いなく昔の物です。少し遠回りになりますが、行きますか?」

早速行ってみることにした。写真を撮っていたら解放軍の兵士のような人が出てきて、「あちらへ行け」という仕種をする。どうもここはまだ現用の軍事施設なのだ。

「対岸のトーチカは、料理屋みたいなことをしているから、問題なく写真に撮れます。帰りによりましょう。」と運転手が言う。

こんなところで、スパイ容疑で強制送還されてはたまらない。私もそうそうに退散した。

 

 牡丹江郊外を東へ、高速道路で20分も走っただろうか。左手前方の丘の中腹に磨刀石鎮はあった。1千戸程の集落。緑の中に集落全体が赤のレンガで一色に見える。

 小川を渡り、集落に入ると木陰に数人の老人が居た。昔関東軍の居た頃の建物を知らないかと、尋ねるのだが皆首を横に振る。次も同じ。

 若者の一団が居たので、今度は少し質問をかえた。

 「昔ここで日本軍とソ連軍が戦争したことを知っていますか?」

 「聞いたことはあるよ。」

 「なにか当時の建物、その跡地でもいいのですが知りませんか?」

 「知りません。」

 「昔の戦争の話を知っている人を、誰か知りませんか?」

 お互いで話し合っていたが、あの爺さんなら知っているだろうと、一人の男性を呼んできてくれた。

 奇しくも1935年生まれという私と同年のこの男性が、「私は当時11才だった。いまでもよく覚えているよ。」と講談調で語り始めた。実は私の中国語レベルでは、老人が土地の言葉で話すと、聞き取れない部分が多い。大筋は分かるから、下手に質問して話の腰を折るようなことはせず、さも分かった顔で頷く。

 

 日本軍はここに守備、主要火器は大砲三門。ソ連軍は前方丘陵台地に布陣。殷々とこだまする砲声は彼の語り口から想像する。

 村落裏の小高い山で、白兵戦が行われたと指差す。そこからは、激戦地一帯も見渡せるという。

 「この車で一緒に行って案内してよ。」と運転手が懇願する。

 若者達も「行ってやりなさいよ。」と言う。

 「私も年だから、山に登らなくてもいいです。近くまで行って説明してくれませんか。」とお願いしたら、この人の良さそうな老人は笑顔で引き受けてくれた。

 

 この辺一帯は盆地である。だから海抜は分からないが、この山は地表から約200メートル。緩やかな中腹は唐黍畑で覆われている。すれ違う馬車に老人が何やら声をかけると先方も笑顔で道を譲ってくれる。

 道幅はタクシーがやっと通れるだけの山道。深い馬車の轍に車輪をとられないように慎重にいく。泥濘があると、少しバックさせて勢いをつけ飛び越えるように行く。

山頂近く、道が途絶えるところまで車は行ってくれた。老人二人が車を降り、散策する。東ソ連国境から進軍してくる道路と牡丹江が、ここからは一望に見渡せる。軍事用語ではなんと言うのか知らないが、砲弾指揮所の望楼があったのだ。

 いまは何もない望楼跡に老人に立って貰い写真を撮る。付近の地表に、茶色く変色した幅1メートル程の線状の物がある。ここが俗にいう蛸壺。塹壕だったのだ。戦いの後この地に来たらまさに屍々累々だったとのこと。掘れば遺骨が出てくるかもしれない。

 丘陵をスターリン戦車が疾駆する様を想像したのだが、戦車は上がっていないようだ。ここでは望楼を巡っての白兵戦が行われ、その帰属が決着をつけた。

 占領後ここから誘導される前方ソ連陣地からの砲弾を、老人が擬音で表現する。

 三発の砲弾が正確に、三門の大砲に命中した。

 (問題都解決了。)「これで全てが終わった。」という老人の言葉を最後に、私達の話題も現実に戻った。

 

 「あなたの話には感動しました。また他の人と一緒に来たいのですが、また案内してくれますか。」

 「いいとも。」

 「お名前はなんといいますか。」

 「陳来友」

 えーっ!まさに「いいとも」ではないか。

 「いい名前ですね!」

 「来る人はみな友達です。有縁千里来相会。」

 有縁千里来相会、この言葉を聞くのはこの旅で二度目である。

 生粋の土地の人間である陳さんは、富農に属し、文革時代は苦労したが、改革開放後は自動車を買い運送業をしたのが成功した。子供は北京で学ばせているそうである。

 「戦争は、庶民にとって悲惨です。」と陳さんがため息をつく。

 撫順に来た多くのソ連兵士が二の腕まで、腕時計をしていた。あるいはこの戦場に倒れた日本兵のものかもしれない。

 

 帰りは、例のトーチカを見たあと、「何処でもいいから牡丹江の観光地に案内して下さい。」と頼んだら、解放記念碑と、「八女投江碑」に案内してくれた。

 解放記念碑は、憶測だが元の忠霊塔だろう。両軍の無名戦士が、奇しくも同じ碑に祭られているのである。

 「八女投江」は少し説明がいる。日中戦争のとき、中国軍が敗れて牡丹江まで追い詰められた。そのとき八人の女性兵士が、負傷者を肩に負い放歌高吟しながら牡丹江に身を投じ、日本軍の注意をひきつけ、主力の撤退を助けたという話である。

 

 関東軍に取り残された日本人婦女子が、30キロ爆弾を身に巻いてソ連戦車に飛び込んだという悲しい伝説がある。

 Nさんはこれを「フィクションです。」と、静かにしかしはっきりと言った。

 Nさんに最後に下った命令は「貴様達に名誉の戦死の場を与える」だった。30キロ爆弾は、屈強の若者でも身につけたら容易に動きがとれない。Nさんは更に語る。

 「負け戦は、まず指揮命令系統が滅茶苦茶になります。そんな中では、誰もが自分のことだけ考えます。」事実Nさんは終戦を知らず混乱の中でうろうろしているのである。避難民に紛れてハルピンまで行きそのまま帰国した人、脱走した人も少なくないという。

私の父も間際に応召され、まだ正規に部隊編入もされていなかったので、部隊長公認のもと徒党を組んで脱走した。

 シベリヤ抑留、その後の悲惨は、私は伝聞でしか知らない。

 この世代の人達は、あまり多くを語らない。語り尽くせないものをそのままあの世まで持っていく気かもしれない。

 それでもいいではないか。語りが全て真実ではない。真実を語ろうとすればするほど真実と離れるもどかしさ。過去の心象遠景はどうしても美しくなる。あるいは逆に巨木のほこらのように、小さな傷がどうしようも無いほど拡大される。

 

 「八女投江」が、自分が助かろうとした結果として主力を救った行為だとしても、彼女達の勇敢さは豪も否定されない。

 「30キロ爆弾」がフィクションだったとしても、その異常な緊張と、口に表せない悲劇を語るには、小さすぎるフィクションかもしれない。

 

 関東軍最後の激戦地は、もう一度訪れてみたい。

 

 古戦場 かつての敵も 今は友

 目を閉じて 涙の露を 手向けする

 蛸壺に 草生す屍 横たえて

 彼岸花 戦の庭に 紅く咲き

 秋風や 火筒の響き 遠く聞く

 星霜は 六十年の 傷を消し

 見渡せば 風と空なり 磨刀石

 望郷の 夕日背にして 息を絶え

 防人は 遠く異国に 何百里

 砲声の 途絶えが 歴史の幕を閉じ

 

 

 粛立古戦場 風雪融去時流緩 仇敵已成友

 

 粛然と立つ 古戦場

 風雪融け去り 時流緩やかなり

 仇敵已に 友と成る

 

 

 遥望磨刀石 夕陽在背想故郷 烈風鳴搬

 

 遥かに望む 磨刀石

 夕陽背に在りて 故郷を想う

 烈風鳴きて 雲を搬ぶ