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 葫芦島へ

氏名 宮岸清衛
年令 71才
住所 石川県石川郡野々市町本町1-2-38
主な滞在地 黒河
 
  60年前(1946)、815日の夜、私は葫芦島港のLSTリバティイ船の甲板で父と母の3人で空を眺めて、新京で死んだ弟妹3人の流れ星に祈っていた。

61年前の89日国境の街、黒河を離脱し北安に逃れ、此処で終戦を迎えて、新京で極寒の冬を生きのびた。

信和小学校?で集団生活をするも、父が特殊警察官であったため同胞等からソ連軍、国府軍、共産軍への密告を恐れて、新京郊外の電車会社の日本人社宅の一軒に隠れ住んでいた。

当時私は(1935812生)浮浪児をしていた。父や母の居る隠家へは35日に一度ぐらいしか帰らず、満人、朝鮮人、日本人等510人くらいのシャオハイの集団になって飲食店の裏から入り食べ物をかっぱらうやら、商店、屋台に陳列してある万頭をかっぱらい、皆で分けて食べ、ビルや空家に入り込み、盗んできた獲物を見せ合いわいわいがやがやと暮らしていた。日本人は私ともう一人ぐらいしかいなかったような気がする、15才くらいの満人が親分にも見えた、女の子も常に12人はいたようだ。

常習の泊まる所は南湖に近い空きビルの3階の部屋だった、そこで私は男になった、シャオハイ達は年長者からマスターベーションを習った、してあげたり、してもらったり。もう一つは孟家屯駅近くの踏み切り番をしている、満人の家だった。

この満人の家には本当によく泊まった、豚を養っており、便所は豚小屋と直結しており、大便は、直ぐ、豚が食べてくれた。

此処の満人は女の子を連れてくると喜んで、鶏をつぶしたり、卵を沢山使った料理を作って食べさせてくれた。女の子は次の日にはいなくなっていた。日本人の女の子も何人か連れてきたが名前等は全く覚えていないし、どんな子だったかも記憶にはない。今思うに連れてきた女の子は売り買いされて残留孤児になった人もいるかも知れない。

ある日隠れ家に帰ると置き手紙をしてあり、日本へ帰るから、新京駅へ行き日本人に聞いて汽車に乗れとあった。父からは一人になったら日本の住所を書いてある紙を日本人に見せろ!と聞かされていた、また屋根裏にはリックサックに雨具等を入れたものを隠してあった。

私はリックサックをかついで新京駅へ走った。新京駅に片隅に机が一つ協和服を着た日本人がいた。聞いた紙を見せた。直ぐ南新京へ行きなさい!と新京駅から線路伝いに南新京へ行きなさいと手を引いて教えてくれた、止っていた貨車の最後尾の無蓋車によじ登った。囲いもない貨車、10人程が真ん中に荷物を置き、振り落とされないように皆荷物を背によしかかっていた。子供は私一人だったように思う。

 汽車は直ぐ発車した。そしてまもなく、止まった。孟家屯駅だった。

 しかも私の乗った最後尾の車両は、踏み切り番の家の直ぐ近くに止まった、

 満人の踏み切り番は遮断機を操作していた、私は叫んだ、気がついてほしかった、気がついた、満人は走ってきた、私は日本人、日本へ行く等を話したと思う。満人は家から毛布や食べ物を持つ来てくれた。なんとも心強いことだった。夕方になるとシャオハイの仲間達も集まり食料は十分になった。赤い夕日の太陽が沈み、とっぷりと日が暮れてから引き揚げ列車はシャオハイ達に見送られながら動き出した。

 無蓋車の夜は寒かった、満人から貰った毛布は寒さを防ぐばかりではない、汽車の石炭粉塵や煙や前の車両から飛散してくる小便等を防ぐためにとても、役にたった。汽車は途中給水のために何度も止まった、そのとき皆は一斉に下車して用をたした。汽車の沿線は糞だらけ汽車の止まる所は何処も糞だらけ、その中を食べ物を売る満人が群がった。私は十分な食料があり、水は大きなヤカンに十分あった。これも孟家屯の満人に貰ったもの。二晩を過ぎてから汽車は砂漠のような木のあまりない、平原を走っていた、汽車は止まった、下ろされた、そして何時間も線路沿いに歩かされた、荷物は捨てた毛布も、リックサックと少しの食料だけになった。

 大きな葦で囲んだ収容所に着いた。遠くに海が見えた、青かった。

 男の人が私を連れてアンペラに座っている人々の間を、宮岸さんはいませんか、宮岸さんはいませんかと大きな声で私の手とつないで、間もなく父と母が見つかった。感動はどうだったか記憶にはない。その日直ぐに船に乗った。815日は間違いない。

 


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