我的出生地「丹東」への日中友好の旅(2005.2.19〜26)                 

                          池 田 武 久

些か旧聞になりますが私が始めて生まれ故郷丹東に行った経緯とその旅行記をご披露します。


私は昨年秋以来習得したばかりのインターネットで出生地である旧満州の安東(現丹東市)に連れて行って貰える人を捜していました。それで今年の一月地元岡山で二月に丹東へ帰省する岡大留学生の何曉麗姑娘(以降小何と書きます)と知りあう事が出来ました。日中友好協会岡山県支部の澤山氏のご紹介です。更に彼女の紹介で大連に一時帰宅する川崎医療福祉大学教授の姜波老師(以降老師と書きます。尚老師は年齢に関係なく中国語で先生と言う意味です)も御一緒頂くことになりました。二月の丹東は零下二十度を越える日もある極寒なので狭心症の私は些か腰が引けましたが中国語の出来ない身には又とないチャンスなので思い切って連れて行って貰う事にしました と言う事で平成十七年二月十九日の朝我々は広島空港から中国南方航空機で大連へ飛びました 当初大連の姜老師宅で一休みしてから瀋陽廻りの夜行寝台列車で小何と丹東に向かう予定でしたが出発直前に利用客が少ないので運休になったと連絡が入り吃驚しましたが小何の弟から大連発寛甸行き(小何の生家のある田舎へ行くバスを乗り継ぐ県都です。尚中国では市と県が日本と逆です)のバスがあると連絡があったので大連に1泊して翌早朝のバスで弟が待っている寛甸へ向かいました。私達は中国の軟臥車(一等寝台車)に乗ってみたかったのですが残念でした。私は約6時間バスに揺られる旅は腰通が心配でしたが道路が全部舗装されていたので助かりました。ただ途中用を足した街道沿いの公衆トイレは例の悪高きニイハオトイレで外の囲いだけのオープン型でした。凍っていて臭いはありませんでしたが滑るので怖かったです。寛甸での昼食で私は始めて狛肉(赤犬)を食べましたが脂っこくて一寸硬く旨いとは言えませんでした。寛甸からは迎えに来ていた小何の妹弟と友達も一緒に妹の友達の運転する車に6人(定員オーバー)乗って小何の実家に向かい夕方陽のあるうちに着きました。実は青山溝と言う観光地に行く予定でしたが帰路道路の凍結が心配なので中止しました。実家では初めて日本人が来ると言うので親類の人が大勢待っていて熱烈歓迎を受けました。小何のご両親を始め皆なさんきさくな人達ばかりでした。その夜は心尽くし夕餉を囲み中国式マージャンを楽しみ暖かいオンドルで小何の御父さんと弟の三人で雑魚寝をしました。 聞いていた通り風呂は無く戸外のニイハオトイレは母屋から何故か数十メートル離れていて零下の夜中に行くのは大変だと心配でしたが幸い暖かいオンドルと飲んだ安定剤のお陰で朝まで一眠りでした。こんな事は珍しい事です さて翌日朝早く家の近くからバスに乗って丹東に向かいましたが途中雪の峠でバスが故障し約一時遅れたので丹東で待っていてくれた二人に心配をかけまた。二人はやはりネットで知り合った丹東出身のつくば大学留学生の父親と日本語が少し出来る彼の後輩です)二人は国家公安局のOBと現役で私の出生地を旧安東時代の住所表記から現在地を探してくれていて昼食後其処へ連れて行ってくれました。一緒に来てくれた小何と弟とは食事後別れましたが昼食で彼等も食べた事がないと言う蚕の蛹を一緒に食べました。カリット揚げてあって殆ど味が無く昨年曲阜で食べたさそりと同様でした。勇気さえあれば何でも食べられるということでしょう。食後今回の目的である我が生誕地の街角に立ったときは流石に感無量でした。 実に六十数年ぶりの事でした。辺りの様子はすっかり変わっていて当時の面影は全くないそうです。幼かった私は殆ど当時の事は覚えていません。この後北朝鮮との国境の『鴨緑江断橋』や安東時代三井物産の社宅だった住居を其の儘ロッジ風に利用している「丹東賓館」を見て回った後彼等のお宅に招かれてお茶を頂いてから奥様共々朝鮮料理を食べに行ったのですが私がご馳走すべきところを逆にご馳走になってしまいました。その夜は予約してくれていた丹東唯一の四星ホテルの中聯大厦でゆっくり休んで翌朝又この二人に送って貰ってバスで大連に向かいました。途中又又雪の為約一時間延着して大連駅まで迎えに来てくれていた老師に御心配をかけました。その夜は老師の御宅でご馳走になり予約してくれていた3星の5・1ホテルに格安で泊まりましたが翌日から三日間は老師宅に泊めて戴きました。老師の御住まいは中山公園南門前の大連市長も住んでいると云う高級マンションの団地内にあり御家族は日系企業の社長をしている工学博士のご主人と下のお嬢さんとご主人の御母さん及びご主人の姉夫婦の六人でした。上のお嬢さんは私と同じ岡山の高校を卒業後現在大阪大学薬学部に在学中だそうです。大連での初日はご主人の姉の夫君が運転する車で日本語が少し話せるご主人の甥の健君(本年四月より岡大工学部に留学予定)の案内で旅順を観光。二日目は私が引き揚げ船に乗船した葫蘆島を訪ねる予定でしたが現在軍港になっている為港への外国人の立ち入りが禁止されていると言うので行くのを止めて友人に頼まれていた大石橋市へ写真を撮りに列車で往復7時間掛けて一人で行って来ました。私は殆ど中国語が出来ないので老師が心配しましたが思い切って冒険をしてみました。幸い往復とも英語のしゃべれる小姐と知り合うと言う幸運に恵まれて心強い旅行が出来ました。特に帰りは又しても降雪で列車が大幅に遅れて改札時間が何度も変わったので恐らく一人だったら乗り損じたかも判りませんでしたから彼女が居てくれた上に遅れた超満員だったのですが彼女のボーイフレンドがずっと先の駅から乗っていて確保していた座席に私を座らせてくれたので大助かりでした。お礼をしたかったのですが如何しても受け取ってもらえませんでした。二人は大連の演劇学院の学生だと言う事以外名前も告げず大連の1つ前の駅で下車していきました。しかしこう書くと如何にも私は英語が達者と思われますが中国語よりましなだけです。また今度も延着したので老師を大いに心配させてしまいました。此処で1つ中国ならではの経験談をご披露しておきます。但しこれによる私の中国感は少しも変化はありません。実は大石橋の駅前で写真を何枚かとる必要があったのですが持って行った馬鹿チョンカメラの残りが少なくなったので1つ中国産の使い捨てカメラでも買ってみようと思ってカメラ屋を探し電子辞書の助けを得て買ったカメラは金属製の箱に入った外見とても立派なものでしたが僅か33元でした。所がこれが大変な代物で3枚撮ったところまではよかった?のですが4枚目のシャッターを切ったところで変な音がしたと思ったら何とばらばらに分解してしまったのでした。吃驚なんてものじゃあなかったです。この話はこれでお終いです。結局季節柄雪の為利用したバスも列車も全部遅れました。最終日前日の午前中は前年に亡くなったご主人の御父上のお誕生日の墓参り(誕生日供養は中国特有の慣例でしょうか)にご一緒した後午後は老師に大連市内を案内して頂き大きな衣料センターの様な所に注文していた絹のチャイナドレス(トップの写真)を取りに行ったら出来あがっていなかったので待つ間に序にと薦められて純毛の三つ揃いのスーツをオーダーしました。チャイナドレスと二着分の生地と仕立て代込みで一万三千円程でしたが仕立ても悪くなく良い買い物が出来ました。こうして今回は日中友好の旅 と言っても私が一方的に大勢の親切な中国人に助けられた出生地訪問の旅でした このような幸運は願ってもなかなか出来無い事でしょう。私は今回の旅行でますます中国が好きになりました。またこの度は行けなかった葫蘆島にも出来るだけ早い機会に行きたいと思っています。中国の反日デモを甘く見てはいけないのでしょうが私が接している多くの中国人たちは殆ど無関心でした。ですから私は今後とも余程情勢変化が無い限り訪中を続ける積りです。何しろ中国は私の生れ故郷なのです。謝謝 の肉の事で