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「あれ、捨てたの?」 宮下秀洋九段
私が二十歳を過ぎたばかりだったから、あれは1956年だったろうか57年だったろうか。松山に宮下秀洋が遊びに来られた。宮下九段と言えば「福島の猛牛」の異名で知られる強腕の棋士である。1962年王座戦優勝を始め各棋戦で活躍された。 私の師匠小山久義六段が、宮下九段と本因坊の弟子として同門だった縁で、思いがけずも、私が指導碁を打って頂くことになった。四子である。小山師範以外はプロ棋士に打って貰うのは生まれて始めて、ましてや相手は九段である。私がカチカチになったとしても不思議ではない。無我夢中で打っていると終盤近く という九段の小声が私の耳元にした。私に石を捨てる芸なんか更々無い。なんのことかと奇怪に思っていると、次にポンと白に一着打たれると、なんと私の大石に生きが無いのだ。そこで、先の私にしか聞こえなかった声の意味が始めた分かった。その声は 「捨てたらまだ打てますよ、もがいたらいけません」 私は決然と捨てた。実は取られたのだが。そして二目勝たせて頂いた。少なくとも先生がわざと負けたとは言えない。しかしこの可愛いい青年に勝って欲しいとは思った。(当時は私も可愛いかった)。あの声が聞こえなかった周りの観衆は、これを華麗な振り替わりとみたようだ。局後の解説でも 「すっかり私がビフテキにされてしまいました」 と冗談を交えながら、最期まで丁寧に指導して下さった。 |
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定年まで、私はNTT (日本電信電話株式会社)に勤めていた。NTTは当時従業員36万人の大会社で、会社の囲碁全国大会を4年に一回行っていた。 私も何回か参加したのだが、1977年箱根で行われた大会の時のことである。時の名人大竹英雄氏が、審判長として見えられた。最終日、優勝者と三子で記念対局を打って貰うことになった。別室で打った手を電話で中継して、会場の大盤で解説する。解説陣はやはり大竹名人と同門の、佐藤昌晴九段(当時七段)、宮沢吾郎九段(当時六段)だった。名人の打ち回しは冴え、中盤で既に黒は勝ち難い碁になっていた。ところがである。解説の佐藤昌晴が時々白の打つ手に首を傾げる。そして素っ頓狂な声を上げた。 「大竹先生一目勝ちを狙っている!」 そう聞いて白の打つ手を見ると、納得がいく。敢えて黒をつぶさないように、最期まで並べるように打っているのだ。実際は黒が一目勝った。それはいい。対局室から大盤の前に戻った大竹名人に、会場から質問が出た。 「先生は本当に一目勝ちになるように打たれたのですか」 大竹名人は、この問いに直接答えず 「私にも楽しませてください」と笑った。 この話しには後日談がある。1994年松山で「NECカップ」が行われたとき、大竹英雄が立会人として来られた。前夜祭のレセプションの席に私も出席し、先生と同席した。懐かしさのあまり、17年前のこの話しを私が笑いながら披露したときである。意外にも先生はきっと居ずまいを正し この才気煥発な天才の、自分に厳しい一面を改めて知ったのである。 |
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1995年、東京で第18回世界アマ選手権戦が開催されたときである。私も丁度所用で上京しており、日本棋院に出向いて観戦した。中国棋院からは、華以剛先生が団長として見えておられ、「やあ、お久しぶり」ということになった。1992年私が始めて中国に旅行して以来、この日本語の上手な先生には何かとお世話になっている。 「一局如何ですか」と先方から声を掛けて頂き、お言葉に甘えて早速三子でご指導頂いた。ここは日本である。華先生なんとか私に花を持たせたかったようだが、ご期待に添えず私は負けてしまった。局後華先生の解説を伺って居たときである。一陣の春風が吹いた気配がした。 なんと武宮正樹名人が横に座られたのだ。そして先生も実に気軽に、まるで巷の碁会所で仲間同士が盤をつつくような調子で私達の検討の輪に加わった。武宮名人の講評と言えば、プロ棋士が金を払ってでも拝聴したがる貴重なものである。私はすっかり興奮してしまった。中盤の難しい局面で、名人が推奨した一手は平凡な一間飛びだった。ところが興奮して舞い上がっている私は、名人の評を批判してしまったのである。 「その手は上品過ぎますよ」 「上品ですか?」 と名人は愉快そうに笑い、私の生意気な言葉に腹も立てず、また私の下品な手を貶すでもなく 「あなたの打った手は難しすぎますよ」 と言葉を継いだ。 |
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関西棋院所属の棋士だった。過去形で言うのは、1992年9月2日、55の若さで亡くなったからである。心不全で突然のことだった。関山利一第一期本因坊は御尊父。現在関西棋院の若手有望棋士、関山利道六段はご子息である。利道六段は一九九一年訪中囲碁団の選手として参加したことがある。 私の師匠故小山久義六段の娘さんが関山利夫氏の夫人、つまり小山師範の娘婿でもある。 「一手の大きさは約11目と考えられる。それはコミが五目半であることに基づく。五目半がコミとして正しいと証明した人は誰もいないが、経験的にこれで大体釣り合っているから、仮にこれを正しいとすると、コミは先着の有利性を折半したものであり、実際に打たれる先着の大きさはその倍11目と言える」 ところが、この七路盤が曲者。虱潰しの方法で調べる限り、単純変化は凡そ10の60乗(銀河系宇宙に砂粒を敷き詰めてその数に匹敵)となり、どんな優秀なコンピュータを持ってきても下手なやり方では手に負えない。 「私もプロです。七路盤位なら決定版を出して差し上げましょう」 それから待つこと数年、先生はこの世を去られた。約束を破るような方ではないから、先生も意外に手こずったのではないだろうか。 何方か、私のこの考えを支持して下さる方で、七路盤の決定版を出して下さる方はいないだろうか。 |
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「美人を追ってはいけません」 苑田勇一九段 1983年、1987年の二回訪中囲碁団に参加され、その後すっかり中国ファンとなった先生は、何回も中国へは旅行で来ている。中国語も少し話される。 先生の飾らない人柄を慕った門弟達によって「勇石会」という勉強会が堺市で作られている。その会の人達が毎年夏道後温泉に遊びに来られる。その折りを利用して私達松山在住の苑田ファンが30人程集まり、指導を受けている。 先生の基本に忠実でありながら、なおかつ独特な指導方針は定評がある。 「攻めず守らず」、「先手は悪手」等々。言葉だけ聞くと怪訝に思われるかもしれない。しかし指導は常に具体的で分かり易い。例えば、大場に対する考え方。 例えば、下図のような布石が問題図。仮に黒の着手を割り打ちの大場として、解答図1と解答図2はどちらの大場が正しいかという問題である。 確か、双方締まりのある中点は最大の大場と習ったと思うのだが、つまり正解は解答1だと思うのだが、苑田先生の教えによると、 「解答図1の大場は石が多いだけ形が決まっています。可能性の大きい解答図2が正しいのです」と明快である。目からら鱗が落ちると言うのはこのことか。 その他 8月末から瀋陽で行われる「日中韓三国アマ囲碁対抗戦」に、お忙しい中を、特に顧問として参加して下さることになった。彼はまた子供好きでもある。瀋陽の少年少女棋士は指導碁を楽しみにして頂きたい。 そうそう。先生は碁以外に、お酒も相当なものである。「瀋陽の酒価を高むる」。瀋陽滞在中に「老龍口」(瀋陽の地酒)の値段が上がるかもしれない。
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昭和48年6月29日生まれ。関西棋院所属。平成14年4月九段に昇段した。現役105人目の九段,そしてまた,このとき現在現役最年少九段。ご父君は故関山利夫九段。他でも書いたが,私の亡くなった師匠小山久良七段のお孫さんでもある。 今年の夏,恒例のお盆で里帰りされたおり,旧小山門下の有志でささやかな昇段祝いの席を設けた。そのあとは例によって,カラオケ。私もどちらかと言うとマイクと仲良しの方だが,利道君は私の上をいく。 まず私なんか題名も知らない若者の曲を,テンポよく甘い声で歌う。 「碁より上手いよ」という皆さんのひやかしにも,ニコニコ笑いながら,次々と演歌まで数曲こなした。 さて本題はこれから。 「女の子は好きですか?」 この唐突な質問に、さすが李昌鎬。 「あなたと同じです」 と笑顔で答えたという。 「こんなに素晴らしい彼と同世代を生きることが出来るのが,私の幸せです」と利道君は言う。 道は遠い。しかしいつの日か利道君が世界の舞台で,この天才と烏鷺を戦わせて欲しいと願うのは私だけでないだろう。 |
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「プロの怖さを知らないね」 星川 信明 八段 一九五一年生まれ。関西棋院の棋士である。同郷のよしみで先生とは、先生が高校生の時からお付き合い願っている。 一九七九年訪中囲碁団の一員(当時六段)として、中国を訪れたのをはじめ、中国には何回も行き親しい友人も多い。 こういう話しをさっと引き受けて呉れる先生は、親分肌というか、少なからずやんちゃな一面もある。ある日囲碁仲間と酒を飲んだときだった。どうしても自慢話になる。あるアマ棋士がプロ棋士に勝った自慢をしていたときだった。先生酒の勢いもあって 「どうです、幾つでもいいですよ。一丁いきますか」 大きな声では言えないが、賭碁の挑発である。 先生曰く「君たちはプロの怖さを知らないよ」。 悔しいが負けた方はなにも言えない。先生に言わせると 注 「お客様は神様」も「いらっしゃいませ」もいま中国の一種の流行語。 |
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「ご馳走しましょう」 王誼 中国棋院国際部の王誼さんは、日本でもよく知られている。彼は日本語が上手で、何回も来日し、日本の囲碁関係の雑誌や新聞に中国の碁界の様子を洒脱な文章で紹介してくれる。 彼には心ならずも三子で指導を受けているのだが、彼はこの善良な日本の老人を本気でやつけに来る。1992年最初に中国棋院を訪れて以来七、八局は打っただろうか、一度も勝たせて貰っていない。私は三子なら日本では、九段にだって三局に一局は勝たせて貰っているのである。これでも、先程の私の主張を認めて頂けないだろうか。 そこでこの私の息子みたいな若者に諭すのである。 |
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人呼んで「大安永」。凡そ碁を打つ人で、安永一の名前を知らない人はまず居ないのではなかろうか。いまから丁度60年前、呉清源と木谷実が、星を中心とした新しい布石を打ち始めたとき、彼はこれを「新布石法」と名付けて世に紹介した。この名著は文字通り洛陽の紙価を高からしめたと聞く。中国との関わりも深く、1963年訪中の時彼が紹介した流行布石、「中国流」の名付け親もでもある。 1993年夏、その彼が松山に湯治に来られた。この好機を逃すべからずと、私達碁好きが一席構えたのは言うまでもない。このとき、先生は既に九十才を少し過ぎておられた。ゆっくりだがしかし実にしっかりした若々しい足取りで、自ら拍手しながら私達の前に現れた。早速誰彼無く指導碁が始まる。私も「先」で指導頂いた。本当は二子も三子も置かなくてはいけない手合い違いだが、先生はそんなことに全然こだわらない。中盤白の先生が、冴えた妙手を放たれたときである。 「私は筋悪でね、こういう筋の悪い手は一目で見える」と、周囲を見渡し自慢の一手の上に指を置いたまま小鼻をひくひくと動かされた。このまるで悪戯小僧のような無邪気な仕草に、周りの観衆も私も思わず吹き出してしまった。とにかく超早碁である。先生妙手の芸だけ披露されて、勝負は私に譲って下さった。 何故彼が「大安永」と言われるか。プロも一目置く碁に対する見識もさることながら、この飾らない人柄が全ての人を引きつけているのだろう。 |
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「僕、本当にそんなこと言いましたか」 中園清三 もう30数年前の話しになる。彼の、お父さんの仕事の関係で、彼もちょっとの間松山にいたことがある。 ある日、小山師範の道場「日本棋院愛媛県支部」でまん丸な眼鏡を掛けた可愛いい中学生位の男の子が、一人つくねんとしていた。 「坊やお出で、一局打とう」と、私が誘ったときだった。 「けんさん、三子だよ」と小山師範が笑いながら言う。師範はどちらがとは言わなかったが、口調で分かる。私は五子くらい置かせるつもりだったから、やや憤然として「二子でいいでしょう」とそれ以上は置かなかった。私は健闘した。図のような形が出来たときだったと思う。私が愚形に頑張ったら、局後「流石にそこが急所です」と坊やに大家のような口調で褒められ苦笑をしたのを覚えている。 小山師範に二子で指導を受けている彼は、事実既に大家の風格があった。指導碁とはいえ延々5時間、一日掛かりで打つ。私達素人は、一体何を考えているのだと思うのだが、局後手どころは、全てこの坊やが師範に替わって説明してくれる。 「形勢はどうなんだ」と尋ねたときである。 「この辺では1目私が悪いと思いました」と平然と答えたときは、もう私達はなんにも言えなかった。 「本当に、あんな所で一目まで分かるのですか」 後日私が小山師範に尋ねたところ、小山師範もどう感じるかが大事なのです」とそれ以上は語られなかった。 後日、彼にまた指導を受ける機会があった。今度は三子置いたのだが、やはり駄目だった。30年以上も前の話しを、私が懐かしく披露したときだった。 「僕、本当にそんなこと言いましたか」 少し困惑した表情に、少年の日の面影が宿った。 |
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彼女は今年満で92才だから、1906年生まれ馬年である。それも丙午。日本には、「丙午生まれの女性は夫を殺す」と言う迷信がある。全くとるに足らない迷信だが、それでも、1966年の丙午年には出生率が下がった。人々が、女児の生まれるのを恐れたからである。この年生まれの女性を、嫁に貰うのを嫌がる人が現実に少なからず居る。だからでもないと思うが、このおばあちゃん、凄く元気がいい。階段を弾むように歩く足取りは、今にも木登りでもしそうな気配なので、それをいうと 「登りたいけど、周囲が止めるの」と平然と笑われる。更に 「私、じゃじゃ馬なの」と婉然と微笑を湛えたお顔は、とてもおばあちゃんとは言えない。娘さんである。 若い時女学校の先生をしていたこともあり、今でも豊富な人生経験を買われての仲人役が忙しい。 「こう忙しいと、死ぬ暇もない」 |
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大島恒次と言っても、皆さんはご存じないだろう。私の母方の祖父である。私は彼に碁を教えて貰った。14才の時中国から引き上げたばかりのころ、長崎の祖父の元に一時預けられていたのだが、そのとき始めて碁を覚えた。最初は井目から習い始め、5年後は私が逆に5目置かせていた。 祖父は70才を過ぎ全ての公職から離れ、また改めて囲碁の勉強を始めた。当時松山にいた私と20年近く葉書で碁を打ったのだが、彼はその後確実に3目は強くなった。晩年は私が長崎に訪ねて行く度に、「会うた時こそ笠をとれ」と言いながら夜を徹して碁を打った。 あれは12年前祖父が93才のときだった。それが最期の碁になったのだが、打ち終えた後祖父が 「私の碁は変わっただろう」と言う。 祖父は高川格名誉本因坊の碁が好きで、大らかな碁だった。 翌年祖父は94才肺炎で他界した。最期高熱で意識を失った祖父に医師は「これ以上の治療はかえって病人に苦痛を与えます。ご本人の為に」と言って点滴もせず、更に「亡くなった時間だけ記録して下さい」と言い残して去った。 |
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私の祖父は明治25年(1892年)壬辰年の生まれだった。だから、いつも口癖のように「私の葬式には雨が降る」と言っていた。昭和61年(1986年)11月11日祖父は子、孫曾孫等一族50人近くに見守られ他界した。 「お祖父ちゃん、雨は降ったばってんこげん雨じゃ雨ちゃ言わんばい」 と生ける人を冷やかすように語り合っていた。でも皆心の片隅であんなに言っていたのだから、本当に降って欲しいと願う気持ちもあった。 午後三時、遺体は諫早市営火葬場に運ばれた。まだ祖父の言葉にこだわっている私達は、次男が 「火を付けたら雨が降るよ」と言った。 長男が点火した。その時である。まさに一天俄にかき曇り激しい雷雨となった。やれやれ降ったと思う私達は、このことを少しも訝しく思わなかった。長男が言った。 「お祖父ちゃん分かったばい。皆傘ば持っとらんけん止まらさんね」 あれ程激しかった雷雨がぴたりと止んだ。 祖父は元々造船技師で、海難審判庁の判事もした人である。迷信家とは言えない。生前不思議な話しをしては「君はこんな話しを信じるかい」とじっと私の目を覗き込んだ。宇宙の歴史は60億年とも100億年とも言う。文明の歴史は高々5000年。仮に宇宙の歴史を一年とすると、我々の文明の歴史は大晦日の20秒にも満たない。その間我々は何程のことを知ったと言うのだろう。もし不思議なことがあっても、それを全て迷信と言うのは人類の奢りではないだろうか。 |
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「以棋会友」 本紙の読者に対する何よりの贈り物である。 「私は中国語が上手です」と言われたのを聞いたとき、私は思わず笑ってしまった。当たり前のことを当たり前に言うのは、ときには最高のユーモアである。それを真面目くさって言われるのだから、なお可笑しい。先生は天性のユーモリストなのだ。お陰で、これまでの私の緊張もすっとほぐれた。そこで調子に乗って提案した。 「本紙の読者も皆中国語は得意です。如何です、今日のインタビューは中国語でお願いしましょうか」 どこの国の人でも、自分の国の選手を応援するのは当然です。しかし、あまり度を越してはいけません。マスコミも囲碁ファンも、一生懸命打った選手を暖かく見守ってあげるのが大切です。」 彼等は平和に役立つことなら、資金援助を惜しみません。 台湾の問題は確かに難かしい面を含んでいますが、民間次元では目に見えて好転しています。寃臭福には台湾資本の碁の学校が出来ていますし、台湾の人の大陸訪問も盛んです。いずれはこの香港の人達が仲立ちして、必ず良い解決策が見出されるでしょう。」 「中国人は世界各地にいますから、碁の普及面でも貢献出来るかもしれませんね」 「いま、槐痛琉さん夫婦がアメリカで普及に努めています。しかし残念ながらアメリカの囲碁人口は、あまり多くはありません。 欧州は、いまかなり碁を打つ人がいます。幸い中国とアメリカの関係は年々良くなっていますから、ここで中国が碁の普及に貢献出来る可能性は大いにあります。そうなれば、両国の関係はもっと緊密になるでしょう。 アメリカと言えばレドモンド八段が急に強くなりましたよ。」 「そう。でもこれは災害だから仕方がない。また必ず機会はありますよ。水害を受けられた同胞の皆さんには、紙面を借りて心からお見舞い申し上げます。 中国の改革解放経済も着実に進んでおり、日本との経済的結びつきも益々深まっています。いま中国は、日本のお金より技術が欲しい。 新幹線、電信電話、石油化学技術等これらは皆中国が必要としている物です。これからは沈陽、ハルビン、大連、東北地方ですね。上海等はすっかり欧米化して、日本はすっかり出遅れている。」 「少し碁の技術的なことをお伺いします。先生の《21世紀の碁》を拝見していますと、中央重視といいますか、隅より中が大きい…?」 「そのような物はありません。定石とか、法則とかにこだわってもいけないのです。局面の善悪判断は人によっても違いますし、私自身先月の考えが来月変わるかもしれない。いつも研究しています。」 「アマチュアの人は、あまり勝負にこだわらず楽しみながら打つのが大切です。」 呉清源の話しは、これ以外にも碁の起源から始まって、天文、四書五経と東洋哲学の神髄にまで及んだ。残念ながら紙数と私の理解力の限界で、全てをお伝え出来ないことを読者の皆様にお詫びしたい。 約束の時間も大きく過ぎ、何度も謝意を述べ呉清源宅を辞そうとした先生の横に寄り添うように奥様が並んでおられる。そこには、北京の胡同で見かける老夫婦が、神様でない「あの呉清源」が、慈愛に満ちた眼差しで佇んでいた。 |
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