「あれ、捨てたの?」 宮下 秀洋九段
「私にも楽しませて下さい」 大竹 英雄九段
 「上品ですか」 武宮 正樹九段
「私もプロです」 関山 利夫九段
「美人を追ってはいけません」 苑田 勇一九段
「女の子は好きですか?」 関山 利道九段
「プロの怖さをしらないね」 星川 信明八段
「ご馳走しましょう」 王誼
「私は筋悪でね」 安永 一
「僕本当にそんなこと言いました?」 中園 清三
「私じゃじゃ馬なの」 五百木 操
「私の碁は変わただろう」 大島 恒次(1)
「私の葬式には雨が降る」 大島 恒次(2)
呉清源訪問記 呉清源九段


「あれ、捨てたの?」  宮下秀洋九段

 私が二十歳を過ぎたばかりだったから、あれは1956年だったろうか57年だったろうか。松山に宮下秀洋が遊びに来られた。宮下九段と言えば「福島の猛牛」の異名で知られる強腕の棋士である。1962年王座戦優勝を始め各棋戦で活躍された。

 私の師匠小山久義六段が、宮下九段と本因坊の弟子として同門だった縁で、思いがけずも、私が指導碁を打って頂くことになった。四子である。小山師範以外はプロ棋士に打って貰うのは生まれて始めて、ましてや相手は九段である。私がカチカチになったとしても不思議ではない。無我夢中で打っていると終盤近く

 「あれ、捨てたの?」

 という九段の小声が私の耳元にした。私に石を捨てる芸なんか更々無い。なんのことかと奇怪に思っていると、次にポンと白に一着打たれると、なんと私の大石に生きが無いのだ。そこで、先の私にしか聞こえなかった声の意味が始めた分かった。その声は

 「捨てたらまだ打てますよ、もがいたらいけません」

 と言ってくれているのだ。

 私は決然と捨てた。実は取られたのだが。そして二目勝たせて頂いた。少なくとも先生がわざと負けたとは言えない。しかしこの可愛いい青年に勝って欲しいとは思った。(当時は私も可愛いかった)。あの声が聞こえなかった周りの観衆は、これを華麗な振り替わりとみたようだ。局後の解説でも

 「すっかり私がビフテキにされてしまいました」

 と冗談を交えながら、最期まで丁寧に指導して下さった。
 宮下九段は、1976年62才の若さで他界された。「猛牛」の綽名が似つかわしくない、スマートで優しい先生だった。

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 「私にも楽しませて下さい」   大竹 英雄

 定年まで、私はNTT (日本電信電話株式会社)に勤めていた。NTTは当時従業員36万人の大会社で、会社の囲碁全国大会を4年に一回行っていた。

 私も何回か参加したのだが、1977年箱根で行われた大会の時のことである。時の名人大竹英雄氏が、審判長として見えられた。最終日、優勝者と三子で記念対局を打って貰うことになった。別室で打った手を電話で中継して、会場の大盤で解説する。解説陣はやはり大竹名人と同門の、佐藤昌晴九段(当時七段)、宮沢吾郎九段(当時六段)だった。名人の打ち回しは冴え、中盤で既に黒は勝ち難い碁になっていた。ところがである。解説の佐藤昌晴が時々白の打つ手に首を傾げる。そして素っ頓狂な声を上げた。

 「大竹先生一目勝ちを狙っている!」

 そう聞いて白の打つ手を見ると、納得がいく。敢えて黒をつぶさないように、最期まで並べるように打っているのだ。実際は黒が一目勝った。それはいい。対局室から大盤の前に戻った大竹名人に、会場から質問が出た。

 「先生は本当に一目勝ちになるように打たれたのですか」

 大竹名人は、この問いに直接答えず

 「私にも楽しませてください」と笑った。

 この話しには後日談がある。1994年松山で「NECカップ」が行われたとき、大竹英雄が立会人として来られた。前夜祭のレセプションの席に私も出席し、先生と同席した。懐かしさのあまり、17年前のこの話しを私が笑いながら披露したときである。意外にも先生はきっと居ずまいを正し

 「もしそんな失礼なことを私が言ったのなら、どうぞお許し下さい。若気の至りです」と頭を下げられた。

 この才気煥発な天才の、自分に厳しい一面を改めて知ったのである。 

 
 「上品ですか?」    武宮正樹

 1995年、東京で第18回世界アマ選手権戦が開催されたときである。私も丁度所用で上京しており、日本棋院に出向いて観戦した。中国棋院からは、華以剛先生が団長として見えておられ、「やあ、お久しぶり」ということになった。1992年私が始めて中国に旅行して以来、この日本語の上手な先生には何かとお世話になっている。

 「一局如何ですか」と先方から声を掛けて頂き、お言葉に甘えて早速三子でご指導頂いた。ここは日本である。華先生なんとか私に花を持たせたかったようだが、ご期待に添えず私は負けてしまった。局後華先生の解説を伺って居たときである。一陣の春風が吹いた気配がした。

なんと武宮正樹名人が横に座られたのだ。そして先生も実に気軽に、まるで巷の碁会所で仲間同士が盤をつつくような調子で私達の検討の輪に加わった。武宮名人の講評と言えば、プロ棋士が金を払ってでも拝聴したがる貴重なものである。私はすっかり興奮してしまった。中盤の難しい局面で、名人が推奨した一手は平凡な一間飛びだった。ところが興奮して舞い上がっている私は、名人の評を批判してしまったのである。

 「その手は上品過ぎますよ」

 「上品ですか?」

 と名人は愉快そうに笑い、私の生意気な言葉に腹も立てず、また私の下品な手を貶すでもなく

 「あなたの打った手は難しすぎますよ」

 と言葉を継いだ。
 ご存じ宇宙流の大家武宮正樹は、碁もさることながら人間も宇宙のように大らかな人である。改めてその人柄に魅入られファンになってしまった。
 自慢にはならないが、私も年をとると頑固である。折角の武宮名人のご指導にも関わらず、相変わらず私の小さな宇宙「碁盤の片隅」で下品な手ばかり打っている。

 
 
私もプロです」   関山利夫九段

 関西棋院所属の棋士だった。過去形で言うのは、1992年9月2日、55の若さで亡くなったからである。心不全で突然のことだった。関山利一第一期本因坊は御尊父。現在関西棋院の若手有望棋士、関山利道六段はご子息である。利道六段は一九九一年訪中囲碁団の選手として参加したことがある。

 私の師匠故小山久義六段の娘さんが関山利夫氏の夫人、つまり小山師範の娘婿でもある。
 そんな関係で、関山九段とは、なにかと親しくして頂く機会が多かった。ある日先生が松山に来られて、稽古先に私が車でお供したときのこと、碁の「一手の大きさが」話題になった。先生が言われるには、

 「一手の大きさは約11目と考えられる。それはコミが五目半であることに基づく。五目半がコミとして正しいと証明した人は誰もいないが、経験的にこれで大体釣り合っているから、仮にこれを正しいとすると、コミは先着の有利性を折半したものであり、実際に打たれる先着の大きさはその倍11目と言える」
 大体こんなお話だったと思う。
 そこで、私も日頃から思っているコミに対する考えを述べてみた。

 「七路あったら一応碁は打てる。もし七路盤で正しいコミが証明できたら、それは一九路盤を含め、七路以上の全ての奇数盤における正しいコミと言えるのではないだろうか。何故ならば、これらの盤は点対称で、七路以上から増える点は、全て観念的に同価値の二点を持ち、増えた分は価値比較を相殺できる」

 ところが、この七路盤が曲者。虱潰しの方法で調べる限り、単純変化は凡そ10の60乗(銀河系宇宙に砂粒を敷き詰めてその数に匹敵)となり、どんな優秀なコンピュータを持ってきても下手なやり方では手に負えない。

 「私もプロです。七路盤位なら決定版を出して差し上げましょう」

 それから待つこと数年、先生はこの世を去られた。約束を破るような方ではないから、先生も意外に手こずったのではないだろうか。

 何方か、私のこの考えを支持して下さる方で、七路盤の決定版を出して下さる方はいないだろうか。


 「美人を追ってはいけません」 苑田勇一九段

 
1952年大阪の生まれ。関西棋院に所属。碁聖戦、天元戦、棋聖戦等で活躍され、そのスケールの大きい棋風は「苑田流」として一家をなしている。今回「碁聖戦」の挑戦者になられ、依田紀基碁聖と戦ったのだが、残念ながら碁聖獲得はならなかった。

 1983年、1987年の二回訪中囲碁団に参加され、その後すっかり中国ファンとなった先生は、何回も中国へは旅行で来ている。中国語も少し話される。

  先生の飾らない人柄を慕った門弟達によって「勇石会」という勉強会が堺市で作られている。その会の人達が毎年夏道後温泉に遊びに来られる。その折りを利用して私達松山在住の苑田ファンが30人程集まり、指導を受けている。

 先生の基本に忠実でありながら、なおかつ独特な指導方針は定評がある。

 「攻めず守らず」、「先手は悪手」等々。言葉だけ聞くと怪訝に思われるかもしれない。しかし指導は常に具体的で分かり易い。例えば、大場に対する考え方。

例えば、下図のような布石が問題図。仮に黒の着手を割り打ちの大場として、解答図1と解答図2はどちらの大場が正しいかという問題である。

確か、双方締まりのある中点は最大の大場と習ったと思うのだが、つまり正解は解答1だと思うのだが、苑田先生の教えによると、

「解答図1の大場は石が多いだけ形が決まっています。可能性の大きい解答図2が正しいのです」と明快である。目からら鱗が落ちると言うのはこのことか。

 その他
「美人と弱い石は、追っかけてはいけません。追うと逃げられます。遠くから眺めているのがいいのです」というのがある。
 なに?あなたは「いつも美人に追っかけられているから分からない」。実は私もこれだけが分かり難い。変に追い回して、攻めているつもりが、逆に攻められているということにすぐなる。

 8月末から瀋陽で行われる「日中韓三国アマ囲碁対抗戦」に、お忙しい中を、特に顧問として参加して下さることになった。彼はまた子供好きでもある。瀋陽の少年少女棋士は指導碁を楽しみにして頂きたい。

 そうそう。先生は碁以外に、お酒も相当なものである。「瀋陽の酒価を高むる」。瀋陽滞在中に「老龍口」(瀋陽の地酒)の値段が上がるかもしれない。


問題図
解答1
解答2

 
 「女の子は好きですか?」  関山利道九段

 昭和48年6月29日生まれ。関西棋院所属。平成14年4月九段に昇段した。現役105人目の九段,そしてまた,このとき現在現役最年少九段。ご父君は故関山利夫九段。他でも書いたが,私の亡くなった師匠小山久良七段のお孫さんでもある。

 今年の夏,恒例のお盆で里帰りされたおり,旧小山門下の有志でささやかな昇段祝いの席を設けた。そのあとは例によって,カラオケ。私もどちらかと言うとマイクと仲良しの方だが,利道君は私の上をいく。

 まず私なんか題名も知らない若者の曲を,テンポよく甘い声で歌う。

 「碁より上手いよ」という皆さんのひやかしにも,ニコニコ笑いながら,次々と演歌まで数曲こなした。

 さて本題はこれから。
 関西棋院の若手棋士が数人で韓国を旅行した。旅行といっても目的は囲碁の研修。そこで彼,李昌鎬と手合わせする機会が得られた。二つ年下のこの天才に私淑していると言っても過言でない利道君,すこし舞い上がった。(彼の言葉による)。そして感想のときなんでこんな質問をしたのだろうということを聞いてしまったのである。

 「女の子は好きですか?」

 この唐突な質問に、さすが李昌鎬。

 「あなたと同じです」

 と笑顔で答えたという。

 「こんなに素晴らしい彼と同世代を生きることが出来るのが,私の幸せです」と利道君は言う。

 道は遠い。しかしいつの日か利道君が世界の舞台で,この天才と烏鷺を戦わせて欲しいと願うのは私だけでないだろう。

 「プロの怖さを知らないね」   星川 信明 八段

 一九五一年生まれ。関西棋院の棋士である。同郷のよしみで先生とは、先生が高校生の時からお付き合い願っている。

 一九七九年訪中囲碁団の一員(当時六段)として、中国を訪れたのをはじめ、中国には何回も行き親しい友人も多い。
 今回瀋陽市から「日中韓三国アマ囲碁対抗戦」の案内があった時、早速各方面に紹介したのだが、時間の関係でどこも返事が重かった。先生に相談したところ、「面白そうな話しではないですか、私達でやりましょう。任せて下さい」と二つ返事で引き受けてくれた。先生がいたからこそ、私達は瀋陽に来ることが出来た。今回の団長である。

 こういう話しをさっと引き受けて呉れる先生は、親分肌というか、少なからずやんちゃな一面もある。ある日囲碁仲間と酒を飲んだときだった。どうしても自慢話になる。あるアマ棋士がプロ棋士に勝った自慢をしていたときだった。先生酒の勢いもあって

 「どうです、幾つでもいいですよ。一丁いきますか」

 大きな声では言えないが、賭碁の挑発である。
 幾つでもいいと言われても、いままで自慢をして手前そんなに置けないではないか。結局アマとは言え六段の猛者が二面打ち三子で彼に貢ぐ羽目になってしまった。こういうのを、もしかして「お客様は神様」というのか、或いは「いらっしゃいませ」と言うのか。

  先生曰く「君たちはプロの怖さを知らないよ」。

  悔しいが負けた方はなにも言えない。先生に言わせると
 「アマの五、六段が一番やりやすい。自分から負けにきて呉れる。」
 どうです、瀋陽の腕自慢のアマ棋士のみなさん。彼と茅台酒を一本賭けませんか。私はどちらが「茅台王」を名乗ろうと一向に構いません。どうせ茅台酒にありつけるのですから。

注 「お客様は神様」も「いらっしゃいませ」もいま中国の一種の流行語。


 「ご馳走しましょう」   王誼

 中国棋院国際部の王誼さんは、日本でもよく知られている。彼は日本語が上手で、何回も来日し、日本の囲碁関係の雑誌や新聞に中国の碁界の様子を洒脱な文章で紹介してくれる。
 だが私は彼にどうしても気に食わない点が二つある。まず第一点、彼は国際部に席をおいていると言うのに、国際友好感覚が欠如している。第二点は、中国の伝統的な美徳である敬老精神が全然無い。

 彼には心ならずも三子で指導を受けているのだが、彼はこの善良な日本の老人を本気でやつけに来る。1992年最初に中国棋院を訪れて以来七、八局は打っただろうか、一度も勝たせて貰っていない。私は三子なら日本では、九段にだって三局に一局は勝たせて貰っているのである。これでも、先程の私の主張を認めて頂けないだろうか。

 そこでこの私の息子みたいな若者に諭すのである。
 「プロ棋士は、アマチュア相手に本気で勝ってはいけない。三局に一回は勝たせるものだ」と。しかしこの分からず屋は笑って相手にしてくれない。
 私達の間で暗黙の約束は、勝った方がご馳走することになっている。だから「ご馳走しましょう」は「やつけて上げましょう」と同義語である。従って私は北京に行く度に彼に中華料理をご馳走になっている。しかしいくら中華料理が美味しいと言っても、こう続くと食べ飽きた。彼は私が中華料理を食べたくて、わざと負けていると思っているらしいが、とんでもない。今度納得のいくようにやつけて、食べ飽きる程日本料理をご馳走して上げよう。


 「私は筋悪でね」   安永 一

 人呼んで「大安永」。凡そ碁を打つ人で、安永一の名前を知らない人はまず居ないのではなかろうか。いまから丁度60年前、呉清源と木谷実が、星を中心とした新しい布石を打ち始めたとき、彼はこれを「新布石法」と名付けて世に紹介した。この名著は文字通り洛陽の紙価を高からしめたと聞く。中国との関わりも深く、1963年訪中の時彼が紹介した流行布石、「中国流」の名付け親もでもある。

 1993年夏、その彼が松山に湯治に来られた。この好機を逃すべからずと、私達碁好きが一席構えたのは言うまでもない。このとき、先生は既に九十才を少し過ぎておられた。ゆっくりだがしかし実にしっかりした若々しい足取りで、自ら拍手しながら私達の前に現れた。早速誰彼無く指導碁が始まる。私も「先」で指導頂いた。本当は二子も三子も置かなくてはいけない手合い違いだが、先生はそんなことに全然こだわらない。中盤白の先生が、冴えた妙手を放たれたときである。

 「私は筋悪でね、こういう筋の悪い手は一目で見える」と、周囲を見渡し自慢の一手の上に指を置いたまま小鼻をひくひくと動かされた。このまるで悪戯小僧のような無邪気な仕草に、周りの観衆も私も思わず吹き出してしまった。とにかく超早碁である。先生妙手の芸だけ披露されて、勝負は私に譲って下さった。
 その後も半日、相手変われど主変わらず。先生10局は打っただろう。「先」から「井目」まで、誰とでもどんな手合いでも実に楽しそうに打たれる。それでも、若い人が気合いの悪い手を打ったとき等は、厳しい指導があった。勝負や手合いにはまったく屈託がない。時には自分が黒石を引き寄せて、相手がかえって恐れ入っていた。

 何故彼が「大安永」と言われるか。プロも一目置く碁に対する見識もさることながら、この飾らない人柄が全ての人を引きつけているのだろう。
 我が囲碁人生最大の自慢は、「大安永と碁を打ったことがある」そのことである。先生は翌年2月92才、肺炎で永眠された。もうこの世では永久に打って貰えない。

 「僕、本当にそんなこと言いましたか」 中園清三

 もう30数年前の話しになる。彼の、お父さんの仕事の関係で、彼もちょっとの間松山にいたことがある。

 ある日、小山師範の道場「日本棋院愛媛県支部」でまん丸な眼鏡を掛けた可愛いい中学生位の男の子が、一人つくねんとしていた。

 「坊やお出で、一局打とう」と、私が誘ったときだった。

 「けんさん、三子だよ」と小山師範が笑いながら言う。師範はどちらがとは言わなかったが、口調で分かる。私は五子くらい置かせるつもりだったから、やや憤然として「二子でいいでしょう」とそれ以上は置かなかった。私は健闘した。図のような形が出来たときだったと思う。私が愚形に頑張ったら、局後「流石にそこが急所です」と坊やに大家のような口調で褒められ苦笑をしたのを覚えている。

 小山師範に二子で指導を受けている彼は、事実既に大家の風格があった。指導碁とはいえ延々5時間、一日掛かりで打つ。私達素人は、一体何を考えているのだと思うのだが、局後手どころは、全てこの坊やが師範に替わって説明してくれる。
 やはり局後の解説の時、100手過ぎたあたりの局面だった。小山師範が

 「形勢はどうなんだ」と尋ねたときである。

 「この辺では1目私が悪いと思いました」と平然と答えたときは、もう私達はなんにも言えなかった。

 「本当に、あんな所で一目まで分かるのですか」

 後日私が小山師範に尋ねたところ、小山師範もどう感じるかが大事なのです」とそれ以上は語られなかった。
 その後彼はアマ本因坊戦優勝五回をはじめ、各棋戦で大活躍し、中国棋士との交流対局も多いから、貴国でもよく知られていると思う。

 後日、彼にまた指導を受ける機会があった。今度は三子置いたのだが、やはり駄目だった。30年以上も前の話しを、私が懐かしく披露したときだった。

 「僕、本当にそんなこと言いましたか」

 少し困惑した表情に、少年の日の面影が宿った。

 
 「私、じゃじゃ馬なの」  五百木 操

 彼女は今年満で92才だから、1906年生まれ馬年である。それも丙午。日本には、「丙午生まれの女性は夫を殺す」と言う迷信がある。全くとるに足らない迷信だが、それでも、1966年の丙午年には出生率が下がった。人々が、女児の生まれるのを恐れたからである。この年生まれの女性を、嫁に貰うのを嫌がる人が現実に少なからず居る。だからでもないと思うが、このおばあちゃん、凄く元気がいい。階段を弾むように歩く足取りは、今にも木登りでもしそうな気配なので、それをいうと

 「登りたいけど、周囲が止めるの」と平然と笑われる。更に

 「私、じゃじゃ馬なの」と婉然と微笑を湛えたお顔は、とてもおばあちゃんとは言えない。娘さんである。

 若い時女学校の先生をしていたこともあり、今でも豊富な人生経験を買われての仲人役が忙しい。
 それと碁とどんな関係がある?それが大有り。彼女はいま私が仕事をしている碁会所「囲碁三昧」のオーナーである。ここでおばあちゃんともよく打つ。本当は四子の手合いなのだが、負けず嫌いの彼女は七子置いてきて、私の石を殺して呉れる。
 日本も終戦後占領政策として農地解放が行われ、中国程ではないが、地主階級は打撃を受けた。それでも元庄屋の五百木家は、屋敷の中に25メートルの本格的な温泉プールを持つ大邸宅である。プールは「五百木スイミングクラブ」として、松山市の青少年の水泳育成に貢献している。更に広い邸内の一室を改築して、多くの人が碁を打てる部屋を作り近所の人に開放している。これは、彼女に碁を教えてくれた亡き夫の意志を継いだものでもある。
 日本は高齢化社会に入り、各地の集会所等で碁を打つお年寄りは多い。しかし最近は残念ながら、日本は国際棋戦であまり良くない。若い人で碁を打つ人も減った。そこで私は提案する。国際老人囲碁選手権戦というのはいかがだろうか。これなら日本もいい線をいける。来年は、おばあちゃんを団長にして中国へ行こう。
 そのおばちゃんだが、

 「こう忙しいと、死ぬ暇もない」

 と今日も元気で、じゃじゃ馬のように跳ね回っている。


 「私の碁は変わっただろう」      大島 恒次

 大島恒次と言っても、皆さんはご存じないだろう。私の母方の祖父である。私は彼に碁を教えて貰った。14才の時中国から引き上げたばかりのころ、長崎の祖父の元に一時預けられていたのだが、そのとき始めて碁を覚えた。最初は井目から習い始め、5年後は私が逆に5目置かせていた。

 祖父は70才を過ぎ全ての公職から離れ、また改めて囲碁の勉強を始めた。当時松山にいた私と20年近く葉書で碁を打ったのだが、彼はその後確実に3目は強くなった。晩年は私が長崎に訪ねて行く度に、「会うた時こそ笠をとれ」と言いながら夜を徹して碁を打った。

 あれは12年前祖父が93才のときだった。それが最期の碁になったのだが、打ち終えた後祖父が

 「私の碁は変わっただろう」と言う。

 祖父は高川格名誉本因坊の碁が好きで、大らかな碁だった。
 実は私は心の中で「相変わらず地に甘い碁だな」と思っていたのだが、それを見透かされたようで、はっとした。祖父は常に最期まで、自分の碁の向上を信じていたのである。

 翌年祖父は94才肺炎で他界した。最期高熱で意識を失った祖父に医師は「これ以上の治療はかえって病人に苦痛を与えます。ご本人の為に」と言って点滴もせず、更に「亡くなった時間だけ記録して下さい」と言い残して去った。
 子供5人(7人居たのだが私の母を含め二人は既に亡くなった)孫17人曾孫は数えきれず、それぞれの夫婦を含め一族が見守る中時折口元をガーゼで湿して貰うだけの祖父は、それでも元々が頑健だったのだろう。48時間大鼾をかいたまま静かに息を引き取った。祖父は私に人の死の尊厳も教えてくれた。祖父についてはもう一回書かせて頂きたい。

 
 
「私の葬式には雨が降る」     大島恒次(2)

 私の祖父は明治25年(1892年)壬辰年の生まれだった。だから、いつも口癖のように「私の葬式には雨が降る」と言っていた。昭和61年(1986年)11月11日祖父は子、孫曾孫等一族50人近くに見守られ他界した。
 葬式は一日おいて13日、この日長崎県諫早市は朝から小雨がぱらついていた。日頃の祖父の言葉を知る私達は

 「お祖父ちゃん、雨は降ったばってんこげん雨じゃ雨ちゃ言わんばい」

 と生ける人を冷やかすように語り合っていた。でも皆心の片隅であんなに言っていたのだから、本当に降って欲しいと願う気持ちもあった。

 午後三時、遺体は諫早市営火葬場に運ばれた。まだ祖父の言葉にこだわっている私達は、次男が

 「火を付けたら雨が降るよ」と言った。

 長男が点火した。その時である。まさに一天俄にかき曇り激しい雷雨となった。やれやれ降ったと思う私達は、このことを少しも訝しく思わなかった。長男が言った。

 「お祖父ちゃん分かったばい。皆傘ば持っとらんけん止まらさんね」

 あれ程激しかった雷雨がぴたりと止んだ。

 祖父は元々造船技師で、海難審判庁の判事もした人である。迷信家とは言えない。生前不思議な話しをしては「君はこんな話しを信じるかい」とじっと私の目を覗き込んだ。宇宙の歴史は60億年とも100億年とも言う。文明の歴史は高々5000年。仮に宇宙の歴史を一年とすると、我々の文明の歴史は大晦日の20秒にも満たない。その間我々は何程のことを知ったと言うのだろう。もし不思議なことがあっても、それを全て迷信と言うのは人類の奢りではないだろうか。

 
 呉清源訪問記


 呉清源のことを称えた言葉は多い。文才の無い私は、もっとも平凡な言葉で畏敬の気持ちを表現させて頂く。「碁の神様」と。
 中国の人達は碁を打つ人は勿論、碁を知らない人でも呉清源の名前はよく知っている。たとえばホテルの従業員のお嬢さん、彼女はもっと平凡な言葉で呉清源にたいする親愛の情を示してくれた。

「呉清源?知っていますよ。あの呉清源でしょう」
 そうだ。民族の誇り呉清源を語るとき、一切の形容詞は不要。ただ「あの呉清源」で十分である。1998年8月22日午後一時少し前、約束の時間には早かったのだが、先生は既に、ここ東京信濃町閑静な住宅地にあるマンションの一室に私達を待っていて下さった。そして書き終えたばかりの色紙を、中国語で読みながら更に若干の解説を加えて私に手渡された。

「以棋会友」

本紙の読者に対する何よりの贈り物である。
 先生の流暢で雅な北京訛りの中国語の後、今度は少し舌をもつらせた日本語で、

「私は中国語が上手です」と言われたのを聞いたとき、私は思わず笑ってしまった。当たり前のことを当たり前に言うのは、ときには最高のユーモアである。それを真面目くさって言われるのだから、なお可笑しい。先生は天性のユーモリストなのだ。お陰で、これまでの私の緊張もすっとほぐれた。そこで調子に乗って提案した。

「本紙の読者も皆中国語は得意です。如何です、今日のインタビューは中国語でお願いしましょうか」

 然しいけない。私の中国語が,やっと街で買い物の交渉ができるくらいである。先生の碁に限らず歴史、経済、文学と多方面にわたる話題にとてもついていけない。やむを得ず、最初の約束通り日本語でお願いすることになった。
 以下は、二時間近くを先生が巾広い話題を、中国同胞のために、熱心に語って下さった要約である。私の力不足で上手く翻訳出来なかった部分は、どうぞ皆さんの理解力で補って頂きたい。尚ここであまり触れられなかった過去の輝かしい実績については、別表の呉清源年譜略を参考にして貰いたい。

 「今日は囲棋報の読者のために、貴重なお時間をさいて頂き有り難うございます。またお元気な様子を拝見し、お慶びもうしあげます」
 「中国の人と話をする機会は少ないですから、私も楽しみにしていました。お陰で精神は元気です。しかし交通事故(別表参照)の所為でしょうか、足が少し不自由です。長い道は人の肩を借りなくてはいけません。」
 「まずお尋ねしたいのは、常昊を始めとする中国の若手の将来性についてですが、先生はどうご覧になりますか。もっと俗なお尋ね方をするなら、彼等は韓国の李昌鎬を追い越せるでしょうか。」
 「常昊も李昌鎬も、まだまだこれからも世界の頂点を目指して覇を競うでしょう。それに、いま陳祖徳さんを始め関係者が力を入れている、少年宮や囲碁学校で勉強している子供達も成長して、近い将来この頂点争いに参加して来るはずです。
 誰でも、いつまでも勝ち続けることは出来ません。棋士は一生懸命打って、次の世代の人達への模範となることが大切なのです。常昊に限らず、少し年齢は上ですが噤遠、他にも、布貎胡、王切、周鶴洋等等中国の若手も皆有望です。先日の富士通杯決勝でも、常昊と李昌鎬が良い碁を打っていました。又中韓対抗試合で、王磊が李昌鎬にポカで負けたけれど、内容は素晴らしい碁でした。(呉清源絶賛の棋譜は別譜参照)
  

どこの国の人でも、自分の国の選手を応援するのは当然です。しかし、あまり度を越してはいけません。マスコミも囲碁ファンも、一生懸命打った選手を暖かく見守ってあげるのが大切です。」
 「中日韓の三国に限らず、碁がもっと世界に広がったらいいですね」
「元々碁は、国際性の高いゲームです。白と黒だけで言葉が分からなくても交流出来る。手談ですね。それに碁は経済的です。碁盤と石があれば良い。紙の碁盤なら、子供の遠足にでも手軽に持って行ける。こんな良い物はない。
 パソコンの普及で世界中の人が、家で居ながらに打てるようにもなりました。
 碁を国際的に普及していくためには、ルールを合理的に国際化する必要があります。
 この碁の持つ国際性に注目して、碁を世界平和に役立てようと、国際的ルールの確立のため私財100億円を投げ打って努力されたのが、昨年亡くなった台湾の応昌期さんです。惜しい方でした。その遺志を継いで、香港の財閥グループの人達が碁をオリンピック種目に加えるための運動を進めています。

彼等は平和に役立つことなら、資金援助を惜しみません。

台湾の問題は確かに難かしい面を含んでいますが、民間次元では目に見えて好転しています。寃臭福には台湾資本の碁の学校が出来ていますし、台湾の人の大陸訪問も盛んです。いずれはこの香港の人達が仲立ちして、必ず良い解決策が見出されるでしょう。」

「中国人は世界各地にいますから、碁の普及面でも貢献出来るかもしれませんね」

「いま、槐痛琉さん夫婦がアメリカで普及に努めています。しかし残念ながらアメリカの囲碁人口は、あまり多くはありません。 欧州は、いまかなり碁を打つ人がいます。幸い中国とアメリカの関係は年々良くなっていますから、ここで中国が碁の普及に貢献出来る可能性は大いにあります。そうなれば、両国の関係はもっと緊密になるでしょう。

アメリカと言えばレドモンド八段が急に強くなりましたよ。」

「話しは変わりますが、江沢民主席の来日が中止になったのは残念でした。」

「そう。でもこれは災害だから仕方がない。また必ず機会はありますよ。水害を受けられた同胞の皆さんには、紙面を借りて心からお見舞い申し上げます。

中国の改革解放経済も着実に進んでおり、日本との経済的結びつきも益々深まっています。いま中国は、日本のお金より技術が欲しい。

新幹線、電信電話、石油化学技術等これらは皆中国が必要としている物です。これからは沈陽、ハルビン、大連、東北地方ですね。上海等はすっかり欧米化して、日本はすっかり出遅れている。」

  「少し碁の技術的なことをお伺いします。先生の《21世紀の碁》を拝見していますと、中央重視といいますか、隅より中が大きい…?」 
「それは少し違います。大事なのは調和、即ち全体的結合です。隅にこだわってもいけないし、中にこだわってもいけない。要するにバランスです。隅の地は目に見えるけど、中央は漠然として難しいということは言えます。」
 「敢えてもう一つお尋ねします。同じような局面で、星の石に掛りっぱなしにする場合と、いけない場合の区別は、何か法則みたいな物はあるのでしょうか。」

 「そのような物はありません。定石とか、法則とかにこだわってもいけないのです。局面の善悪判断は人によっても違いますし、私自身先月の考えが来月変わるかもしれない。いつも研究しています。」
 「一般のアマチュアにも、何かお言葉を頂けますか。」

 「アマチュアの人は、あまり勝負にこだわらず楽しみながら打つのが大切です。」
 「でも、先生勝ちたいですよ。」
 「ハハ。勝ちたいのは人情です。でもあまり勝負にこだわって徹夜なんかしないこと。薬だって飲みすぎたら毒です。楽しみながら強くなるのが理想ですよ。」
 「碁は勿論ですが、私は先生の激動の20世紀を平和主義者として歩まれてきた姿勢、なかでも、中日友好の模範となられていることを敬服している者です。」
「私が日本に来た1928年は、中日の関係が既に難しくなっていました。当時の首相、犬飼毅氏の特別な計らいで来日したのですが、その犬飼首相も5.15事件で暗殺されました。
 それにしても20世紀は悪すぎました。故周恩来首相が言われたように、中日は不幸な歴史もあったけれど、友好の歴史の方がもっと長い。今は20世紀の垢が残っているけれど、やがて来る21世紀は必ず明るいです。」
 先生とお話していると、将来が明るく思えて楽しくなります。」
「そう。21世紀は碁も世界も明るく発展することを私が保証します。だから皆さんも身体を大切にして頑張りましょう。私も百才まで頑張ります。前途無限光明景です」
「最後に良いお言葉を有り難うございました。どうか先生もお体を大事になさって、百才と言わずいつまでもお元気で、私達をご指導下さい。」

呉清源の話しは、これ以外にも碁の起源から始まって、天文、四書五経と東洋哲学の神髄にまで及んだ。残念ながら紙数と私の理解力の限界で、全てをお伝え出来ないことを読者の皆様にお詫びしたい。

約束の時間も大きく過ぎ、何度も謝意を述べ呉清源宅を辞そうとした先生の横に寄り添うように奥様が並んでおられる。そこには、北京の胡同で見かける老夫婦が、神様でない「あの呉清源」が、慈愛に満ちた眼差しで佇んでいた。