阿Kの中国放浪記

 

 

 1 前篇

 

 1-1 没落

大正八年(1919年)。中国は辛亥革命が起こり、中華民国の誕生、五四運動と国内は大きく揺れていた。

 世界は第一次大戦が終結し、戦時好景気の反動で、日本は大不況に見舞われていた。

その年我が家は没落した。

 今も広島市法務局の古い土地台帳を閲覧すると、祖父名義で登記されていた数ページに亘る広大な山林田地が、ある日を境に、全部名義書き換えが行われている。

 今僅に残っているのは、屋敷脇にあった墓地200平米のみである。

広島市の郊外で、庄屋としてかなりの地主だった我が家は、明治維新の変革を乗り切り、この時期祖父は手広く材木商をやっていた。それが、祖父が相場に手を出し、第一次世界大戦の反動不況で、一夜にして全財産を失ったのである。

祖母は、今も中国山脈の中腹に白壁が連なる大邸宅の出で、毎日琴三味線と習い事に精を出す、いわば乳母日傘の深窓の令嬢だった。

全財産を処分してもなお残る膨大な借金の肩代わりをしてくれたのは、祖母の出里だった。

 

親類一族に負い目を持ったまま、祖父は夜逃げ同様にして中国へ渡った。

当時九才だった父が、一度だけ当時の思い出を語ってくれたことがある。

姉13才、兄11才、自分、それと幼い弟妹。祖母は小雨の中を五人の手を引いて、開原駅横の居酒屋で一人黙々と白酒を呷り、いつまでも帰ろうとしない祖父を、じっと立って待っていたという。

祖父は日露戦争(1995年)に看護兵として従軍していた。そのときの経験を生かして開原で診療所みたいな物を開き、親子7人の口そぎをしていたのである。

当時満州へ渡った日本人は、我が家を含め多かれ少なかれ日本を捨てなくてはならない事情を抱えていた。国策に乗って海外雄飛を夢見た人が居たとしても、それはほんの一握りに過ぎない。

当時大連に「一万円」という屋号の帽子屋があったという。一万円を貯めて故郷へ錦を飾る夢を、屋号に託していたのだ。

 

我が家には、夢も希望も無かった。まず幼ない弟妹が、環境の激変に対応できないまま、さしたる病名もなく、腹を壊して死んだ。

6年後祖父が死んだ。そのとき父15才。

悲劇の女神は、まだ手を緩めてはくれなかった。父の姉が21才の若さで死んだ。四平で亡くなったのだが、過去帳の姓が変わっているから、結婚して間もなくだったのだろう。このとき、祖母の落胆は尋常でなかった。

父の姉、即ち私の伯母は当時の奉天の女学校を出て、祖母の一番頼り甲斐が有る話し相手であり、また相談相手でもあった。

父の兄、即ち私の伯父が最後に亡くなった。25才。警察官として、台湾に赴任していたのだが、腸チブスに罹り、アッという間に他界した。

 

言葉も通じない、知った人もいない異国で僅か10年あまりの間に、夫子供6人を失った祖母は、只一人残された子、父を溺愛した。

「晃さん」と、祖母は我が子の名を、さん付けで呼んだ。

 それでも、親子に帰る祖国は無かった。

 父は、大連商業に進学した。

 祖母は、念仏三昧の生活に入った。 

 生活費は、祖母の実家の仕送りに頼っていたのではないだろうか。常々祖母は「兄さんには、足を向けて寝られん」と、言っていたから。

 私の中国と、親子三代にわたる関わりはこうして始まった。

 辛亥革命、中華民国、新中国の誕生の歴史は、我が家と私の歴史でもある。

 

1-2 葛藤

父は、学校の成績は良かった。

大連商業卒業後満鉄に入社するが、委託留学生として、長崎高等商業に留学する。当時を知る人の話では、綽名が「秀才」。今で言うマザコンで、祖母がいつもそばに居たという。

下宿先の6才下の女性を見初め、やがて結婚する。私の母となった人である。

母は、女4人男3人の長女として、長崎市で育った。母の父は長崎三菱造船所の技師。母は女学校を出ていた。

 

1935年私が誕生。父26才。母20才。

父は。長崎から帰ると満州国資政局勤務。その後満州国官吏養成所大同学院に入校。満州国官吏としての道を歩む。

父は私の名前を「獻」とつけた。当用漢字では「献」だが、戸籍の正式な名前は「獻」である。満州国官吏だった父が、我が子を満州国皇帝溥儀に献上するという意味でつけたものだ。

私は、この名前を気に入っている。私は生まれながらにして、中国に献上されたのだ。

 

中国人は「偽満」と言って、傀儡国満州国の存在その物を認めない。しかし中国人が認めようと認めまいが、偽だろうと、傀儡だろうと、満州国は現実に15年間存在したのだ。

父にとっては、王道楽土の理想の国を夢見て命を懸けた国であり、私にとってはその夢を継ぎたい土地だ。勿論満州国が侵略の結果だったとことは認める。しかし違う形ででも、中国に我が身を献上することは、私の生まれながらの宿命だと思っている。

だから私は今、定年後もここに住み、骨もここに埋めるつもりでいる。

 

私達親子は、王道楽土で幸せなはずだった。しかし両親は、私が生まれると間もなく離婚した。そして二年後にまた再婚した。

「晃さん」を取られた祖母が、どうしても母を受け入れられなかったのだ。

母は、祖母に追われるように実家に帰った。

再婚の条件は、祖母が別居することだった。

祖母の妹が骨を折って、祖母を預かってくれることになった。

 

私の人生で一番古い記憶は、この両親が再婚し、新京の町のアパートの父の書斎で再会したときである。

その間私は、長崎の母の実家に預けられ近所の人に貰い乳をして育った。

「只今帰りました」と、母が敷居に三つ指をついて低頭する。父は黒檀の机の前で、椅子に座ったまま、体をこわばらせている。待ちに待ったこの瞬間にも、父は愛情表現が出来ない人間だった。家族も普通の家庭も知らない、祖母と二人だけの世界しか知らない異常愛症候群だった。

「お父ちゃんと会える」

 満三才に満たない私の弾んだ心は、この場の空気に凍りついた。このとき母が着ていた、矢絣の着物と父が座っていた重厚な黒檀の机は、私の人生で最初に刻み付けられた記憶として、今もセピア色の母の写真と共に鮮明である。

 

 俗に言う嫁姑の葛藤は、母一人子一人の家庭では特に深刻だった。

 しかし父にとって母は、元々恋女房だ。再婚間もなく、5才違いの弟が出来た。更に二年後妹が出来たが、二才になる前に夭折した。母は髪の豊かなこの子にいつも「大きくなったらお下げに結ってあげようね」と言っていたが、風邪を拗らせてあっけなく他界した。

 覆水は徐々に盆に返っていた。大同学院卒業後、満州国官吏として父の出世も順調だった。出世に転勤はつきもの。やがて熱河(現在の承徳)の市公署(日本の市役所)地政課長として転勤。そのとき父31歳。

 武烈河で水遊びした、数少ない家族団らんの写真が今も残っている。

 昭和16年(1941年)12月8日の日米開戦の大本営発表を私は承徳で聞いた。

 翌年の春、父は撫順市市公署地政課長参事官として栄転。父33才。私は承徳で国民小学校一年に入学していた。

 真珠湾、ハワイマレー沖海戦、シンガポール占領と、皇軍は連戦連勝だった。

 父は職場の野球でエース。母は健康。我が家も春。私の子供の時で唯一楽しい思い出が有るのは、この承徳の一年だけである。

 

1-3 祖母満州へ

昭和19年(1944年)本土空襲開始。

戦局の悪化は絶望的だった。

祖母は広島で、祖母の妹の下に預けられていたのだが、「本土より満州の方が安全」ということで、父が「どうしても晃さんと暮らしたい」という祖母を呼び寄せた。復縁は別居が条件だったが、親子の情の前に破られた。

父も最初は、祖母の好きなお琴の相手をして機嫌をとり「六段」や「黒髪」を習っていた。それも長くは続かなかった。

我が家の短い春は終わった。愛憎の葛藤の地獄が、私の前で展開される。

嫁と姑の葛藤と言えば、姑の嫁いびりと思われがちだが、我が家の場合は少なくとも生物的には母の方強かった。しかし祖母は晃さんから、片時も離れようとせず、仕事から帰った父にまつわりついて、その多くは母の神経を逆撫でするものだった。

 

ある日、祖母がご飯をどんぶりに入れて蓋をし、それを押し入れの蒲団の中に隠すようにしまい込んだ。その奇怪な行動を見ていた私が母に報告した。確かに統制経済の下、米は貴重品だったが、誰もひもじい思いをするような状況には無かった。

「なんでこんな情けないことをして下さるのですか」と母が泣くような声で難詰する。

「晃さんに食わそう思うての」と祖母はケロッと答える。

母の神経がきれる。しかし祖母は「晃さんにあんたには逆らわないよう言われとりますけん」と取り合わず、益々母を苛立たせる。横から見たら、祖母がいびられているように見える。

女同士の神経戦は、祖母が一枚も二枚も上だった。それに祖母は夫と四人の子供を、誰も知った人の居ない異国で次々と亡くし、自分自身の神経がおかしくなっていたに違いない。    この時母29才。祖母62才だった。それに冷静に対応するには、母は若過ぎた。

告げ口をした私は、祖母に疎まれた。嫌われた。憎々しい口調で「あんたは、あれに似て可愛げないの」と言われるのは、気持ちが良いものではなかった。祖母は母のことを「あれ」と物に対する代名詞で呼んだ。

 

戦局は更に悪化していた。昭和20年(1945年)4月、父は蘇満国境に近い黒竜江省鶏寧県総務課長として転勤になった。母はその時肺結核を患っていた。父は祖母だけ連れて赴任する。

残された病の母と、私達三人の兄弟妹の世話をするため、母の10才違いの妹私の叔母が長崎から来てくれる。

戦局の悪化と共に、世の中も我が家も暗いことばかりになった。

 

1-4 敗戦

父が赴任した黒竜江省鶏寧県は、現在の鶏西市に含まれる。牡丹江の北東約100キロに位置し、東のソ連との国境まで30キロほどしかない。

戦局は1945年3月17日、硫黄島陥落玉砕。3月26日沖縄戦開戦。

関東軍100万の精鋭は、沖縄戦に備えて移動し満州は事実上空っぽだった。武器は東寧要塞の要塞砲を始め、主要武器の殆どが沖縄に移され、三八式歩兵銃すら満足に無い部隊があった。皮肉なことに、武器と抵抗力が無い為に助かった部隊もあると聞く。

先を急ぐソ連軍に無視され、スターリン戦車が部隊のど真ん中を悠々と走り抜けた。

 

1945年7月。父は召集を受けた。

そのとき父36才。兵隊としては老兵だが、残っている男という男は、全部補充兵として駆り出された。

内務班の新兵教育は、「娑婆っ気を抜く」びんたで始まった。朝から晩まで殴られた。

訓練は、匍匐訓練。爆弾を腹に巻いて、敵戦車のキャタビラ下に匍匐(腹這い)して潜る自爆訓練。

長崎高等商業を卒業している父は、特別幹部候補生として訓練を受ける。志願したのだ。

相変わらず殴られたが、酒保(軍隊食堂)の待遇は少し良くなった。

8月9日ソ連軍越境。鶏寧に残された祖母達が避難する。避難を指揮したのは県知事久保田豊。氏の義妹が祖母の世話をする。彼女は後に私の義母となる。一行はハルピンに落ち着いたが、祖母は更に700キロ南の撫順、の我が家まで来た。

北満僻地の開拓農民の多くも避難したが、途中ソ連軍による虐殺、集団自殺などの悲劇もあった。

 

撫順は日本人も多く(推定10万)工業都市として比較的治安が良かったので、多くの避難民が流入した。地理的に北鮮国境方面からの人が多かった。

撫順駅から避難所に当てられた七条小学校(今の五十中学)まで、一キロ強の道を女子供だけの数百人の集団が長い帯になってだらだらと進む。死んだ赤子を背負った母親。半狂乱で泣き叫ぶ女性。一歩足を前へ出しては立ち止まり、後ろ足をゆっくり引きずるように前足に進める。男装の少女が虚ろな目つきで物も言わない。

我が家はその通り道東一条四国町、今の東一路にあった。母の看病で我が家に来ていた叔母が、お握りを作ってもてなす。黙々と食べる彼女達を前にして、叔母が

「もう、戦争は絶対に嫌!」と腹の底から振り絞った泣き叫ぶような声で言う。つい先日までは、どんなに言いたくても口が曲がっても言えなかった言葉だ。

 

私は終戦の玉音放送を撫順で聞いた。まず何を思ったか。

「ああこれで戦死しなくてすむな」と密かに思ったのである。信じられないだろうが、10才のガキが本当にそう思った。毎日毎日「天皇陛下万歳!」と叫んで死ぬことを第一とする軍事教育を受ける中で、口に出来ない死の恐ろしさと共に、何か空しいなと思っていたから。私はませたガキだったのだろうか。

 

敗戦後間もなく父が帰った来た。

本来ならシベリア送りだが、武装解除を前にして部隊長が

「お前達は員数外だ。部隊と行動を共にするもよし、行く所がある奴は好きに行動して良い」と部隊長公認の下に脱走して来た。

終戦間際のどさくさの召集で、父達はまだ正式に軍籍に登録されていなかったのである。

たった一ヵ月足らずの軍隊生活だが、父の背中も腹も逆三角形に筋肉が引き締まっていた。

明るくなったのは、灯火管制が解けた夜空だけ。

「男は全部鼻輪を通されて奴隷。女は皆妾」と、暗い流言飛語がまことしやかに飛び交う。

深夜「助けてー!」と女性の悲鳴が聞こえても何も出来ない。敗戦国民は静に次の運命を待つしかなかった。

 

1-5 敗戦後

敗戦後3年、その間撫順は4回政権交代があった。

1 日本からソ連

2 ソ連から八路

3 八路から国民党

4 国民党から八路

その間、撫順が比較的治安が良かったのは、やはり満鉄の存在が大きかった。満鉄の持っていた設備と技術は、どの政権にとっても重要だった。10万の満鉄の社員も団結していた。ソ連から八路への政権交代は、友軍同士だからスムースに行ったが、ソ連は動かせる設備は、根こそぎ鉄道で本国へ持ち去った。

 

そんな敗戦後間もまないある日、私はいつものように、近居の年上の子供達と裏の渾河に水遊びに行った。彼等は30メートルほど沖の中州になっている島まで泳いで渡った。

泳げない私は、手前の3メートルほど直ぐ沖にある水槽みたいな設備の間をばちゃばちゃと手足を動かすだけの犬かきをしながら、自分で泳ぎの練習をしていた。その時水槽まで手が届かず、沖へ流されてしまった。遠くに忠霊塔(現在の解放記念塔)が見えたのを覚えている。

そこは、永安橋のすぐ下だった。今は、この間に多くの建物が建って、見えないが距離は近い。私は承徳で父に水遊びに連れて言って貰って、人間の身体が浮くことだけは知っていた。だからそれほど緊迫感は無かったが、実はかなり危険な状態だった。浮くということを頭で知っていただけで、体では会得していなかったから。

「水をのんだらいけない」それだけ思いながら、どれくらいばたばたしていただろうか。

男性の手が伸びて来た。「クピモテ、クピモテ」と、朝鮮訛りの日本語は、彼が日本人の子供と知りながら助けてくれたのを意味する。彼は近くで投げ網漁をしていた。

後日それを知った父が、「あんたは本当に悪運が強い人間だ」と感嘆するように言った。

「私は悪運が強い人間だ」これは私の妙な自信になり、その後の人生で幾度も遭遇した危機に際したときも私を楽観的にしてくれ、パニックに陥いることなくそれの回避に役立たせてくれた。

 

復員した父は、満鉄が中心になって組織した「居留民会」という、日本人互助会の職員として仕事をした。

父は中国語が出来たから、会の仕事として日本人に中国語を教えていた。今の東六路の一角にあった西本願寺の本堂で、教科書は当時の日本人の会話教本「急就篇」を使った。

父はここ以外でも、請われたら個人教授もしていた。私もそれに付いて行った。礼にお菓子が出てくるのが、楽しみだった。

学校は閉鎖されていたが、父が読み書き以外に西洋史なども教えてくれた。父の蔵書はまだ多く残っていた。

商業学校一筋で学んだ父は、算盤が桁数の多い数字の暗算を自在に出来るほど得意だった。

「芸は身を助ける」と言いながら、それを教えてくれた。

 

1-6  春遠し

敗戦後、多くの日本人が職と収入を失った。

我が家もそうだが、避難民と呼ばれた人達はもっと悲惨だった。この人達は、避難所と呼ばれた元の小学校に分散して収容されていた。今で言う戦争難民である。

この人達が街角で、餅や煙草を立ち売りしていた。煙草は手製の紙巻きの闇煙草で、銘柄だけは「前門」「光」とか高級だったが、勿論偽である。

私もまず粟餅を売った。初めてのとき、1円50銭で仕入れて2円で売るのだが、20個仕入れて一個も売れない。安くしたら売れるかなと1円で売ったらすぐ売り切れた。

父が呆れて言う。

「あのね、けんちゃん。商売は1円50銭で仕入れて2円で売って50銭の儲け。1円で売ったら50銭損じゃない」

「なるほど」私は始めて商売のいろはを覚えた。次は名誉挽回。8円で仕入れてきたパンを10円で売った。最初は「パンは如何ですか」という売り声がどうしても出ない。そのうち売り声も元気に大きくなり、最後は毎日60個売った。儲け120円。これは仲間内では稼ぎ頭だった。

 

避難民の人達と違って、我が家にはまだ売り食い出来る品物があった。欠けた茶碗、錆びた針金、使いかけの鉛筆・・・何でも売れた。

実際に街角で直接中国人と触れて、私の中国語はどんどん進歩した。

当時は最初に進駐して来たソ連軍の軍票が通貨で、それで稼いでいたのだが、ソ連軍が撤退して、八路軍に移管されたら軍票は一夜で紙切れになった。

敗戦前は、統制経済の下何を買うのも配給切符が要って、消費組合というお上経営のスーパーみたいな所で買うのだが、「欲しがりません勝つまでは」のポスターが有るだけで、商品は何も無かった。それが何処にこんな物が有ったのかというほど、市場にはお菓子も果物も穀物も豊富に出回っていた。

 

やがて、敗戦後一年目の冬を迎える。

避難所の人達を襲ったのは、飢えと寒気と伝染病だった。

ここの緯度は札幌とほぼ同じだが、シベリアからの寒波と長白山系山脈からの吹き下しは厳しく、零下30度を下回ることもあった。

虱が媒介する発疹チブスも猛威を振るった。

そんな中、春を待てずに裸で防空壕に捨てられた人達が、春の雪解けと共に渾河に捨てられた。筵から硬直した手足を出した死体が馬車で何台も列を作った。

 

私の母と妹も、春を待てなかった一人だ。

母の結核は、医者も薬も無い中進行していた。父が何処で仕入れて来たのか、ブドウ糖を私が静脈注射をした。父も叔母も大人は居たが、母が子供の私に打たせたのだ。みな経験が無いことだが、子供の方が器用だったのかもしれない。

母は二月のある日、痰を詰まらせて亡くった。享年30才。10日後、妹が下痢をして後を追う。離乳食は私がご飯を噛んで、口移しで与えていたので、痩せ細り最後に残した泣き声が今も忘れられない。

回りも我が家も、死はあまりにも日常的だった。

 

1-7 白馬の王子

南台町の一角にあった元消費組合の建物が、抑留子弟の学校に当てられていた。その名も「日僑浮子弟小中学校」(日本人捕虜子弟小中学校)

学校帰りのある日、一人の国民党兵士に呼び止められた。

「日本人の子供だろう。餅が付けるか?」

私が首を横に振る。

「いいから付いておいで」と彼が近くの国民党の将校宿舎に私を案内した。

 

「あれーっ!けんちゃんじゃない?」若い女性の声がした。声の主は秀子姉さんだった。

彼女は、東一条四国町に住んでいたときの隣人だ。私が母を亡くしたことも、いつも私が背中におんぶして子守をしていた妹のことも知っていた。18才位だったろうか。

私には、いつも飴や色鉛筆などを呉れる優しいお姉さんだった。そんな彼女を白馬の王子が見初めた。軍装を整え、サイドカーに乗った国民党将校林中尉だ。彼は、いつも王妃と仲の良い私にも何かお土産を用意してくれた。

彼女のハートを射止めた彼と秀子姉さんは、いつか見えなくなっていたのだが、ここに居たのだ。

「あなたの妹さんも可哀想にね」

秀子姉さんは、相変わらず優しかった。

「あの人は、若いけど偉いのよ」と林中尉のことを誇らしげに語った。二人の仲は睦まじいようだ。

「いつでも、また遊びにおいでね。友達と一緒でもいいよ」

別れたあと、先の当番兵のような国民党の兵士が言う。

「今日は彼女も、久し振りで日本語を十分話せて、機嫌がよい」

どうも餅付きは口実で、当番兵が気を利かせて、話相手として私を呼んでくれたようだ。

 

撫順には、残留孤児以外にも中国人と縁が出来て残った、残留婦人が多かった。

門脇さんは、そのどれにも当てはまらない残留邦人だった。この人は、撫順市の郊外東、龍鳳地区の一軒の富農に寄留していた。

満蒙開拓義勇軍宮城県出身20才。私が知っているのはそこまでで、何故彼がここに居たのかはよく分からない。只覚えているのは、彼が「北京に行きたい」と言っていたことである。

彼はこの家の人達に慕われていた。農園の中に土俵をつくり、子供達と相撲を取って遊んでいたのを覚えている。

私はここを知ったのは、ある日本人の友人の紹介だが、ここに遊びに行ったら、もぎたての瑞々しい野菜を持ちきれないほどお土産に貰えた。

ある日、門脇さんが銃の手入れをしていたので、何をしているのか聞いたら、昨夜小規模な襲撃が有ったと言う。

解放目前の撫順郊外は、すでにグレーゾーンだったのだろうか。まだ国民党の支配下にあったが、共産党のゲリラが出没していたようだ。

富農は、共産党の階級的敵だった。

 

1-8 家出

1948年7月。瀋陽撫順一帯は、まだ未解放だったが、国共内戦は国民党がアメリカの後ろ盾が思うに任せず、一方共産党はスターリンの強い支持の下、勢力を拡大していた。 

遼寧西の、阜新は3月に解放。この周辺は既に八路軍の包囲下にあった。

葫蘆島、錦州に拠点を持つ国民党と、それを叩くことで、東北全域の解放を目指す共産党軍と、最後の決戦を目前にして、風雲は急だった。

都市部が包囲されていると言うことは、農村部から食料が入らないということである。

政治工作員によってもたらせた工作もあり、穀物価格は破壊していた。リュック一杯の紙幣を持って行ってもそれと同じ重量の、穀物は買えなかった。

 

学校は体育の時間が無くなっていた。多くの児童が、栄養失調で動けなかったからである。

私は、2キロほど離れた穀物店で、やっと大豆粕を手に入れて来た。大豆油を搾ったあと、円盤状のこの塊は家畜の餌にされていた。

重量5キロほどの円盤は、体重40キロに満たない私にとって、キリストが担ぐ十字架より重かった。

これを砕き削り、重湯状にぐつぐつ煮て食べる。塩で誤魔化して流し込むのだが、、その塩も貴重品だった。

 

「山崎家は家長の食卓は別だ」と祖母が変な理屈を付けて、その頃食卓は私一人だけ別だった。夕食は「あれはもう済んどる」と言って父と弟が二人で食べる。

二人の食卓は、高粱粥だった。

「僕もこんなのが食べたい」と言ったとき父がきっとなって祖母に向かって言った。

「この子には何を食べさせている!」

「同じ物食べさせてますがな」と祖母が取り合わない。

あくる日、学校から帰ると、祖母が血相を変えて待ち受けていた。

「あんたは、あれに似て意地が汚いのう。晃さんを苦しめるなら一緒に死のう」と、包丁を振りかざした。

祖母は、1メートル50に満たない。しかし小学校6年になったばかりの私はチビで1メートル30に満たなかった。

祖母は完全に狂っていた。顔が四角になるまで口を横に引き裂き、額に大きな横皺を作って目も鼻も眉も大きく釣りあげる。怒り狂った目は本当に火が出るのだ。真っ赤な眼差しはまさに鬼婆だった。

 

私は只逃げた。その日は家に帰らなかった。

玄関先で寝て、父の気配を感じると隠れた。

夏でも夜は寒い。折しも満月。月に亡き母の面影を浮かべて、いつか北京に行こうと月に誓った。

明くる朝、父は叱る言葉も慰める言葉も知らなかった。ただ深いため息をついた。母の時もそうだったが、こういう時父の攻撃の手は、祖母に向かう。祖母は父の為すに任せて

只悲しそうな眼付をする。私はこの光景が大嫌いだった。だから私も無言になった。

父が居なくなると。「あんたはあれに似て強情じゃのう」と、祖母がいつもの「あれに似て」を憎々し気に言った。私は無言。このころ私は酷い吃音になっていた。物を言う気も無かったが、言いたくても言えなかった。

私は北京に行く夢を見ながら、自分で自分を慰めていた。

 


 

 2 放浪篇

 

2-1 別れ

 1948年8月3日、撫順から最後の引き揚げ列車が、撫順駅構内に停車していた。

 無蓋貨車、即ち屋根が無い貨物列車は、平たい頑丈な板に、車輪が付いているだけで、敷物などは勿論無い。

 まず貨車の四隅の柱の間にロープを張り、人や荷物が落ちないように、安全を確保する。勿論それ位では安全は十分とは言えない。トイレは原則停車中に線路脇で用を足すが、緊急の場合は隅の柱に手を添えて自分で自分の身体を確保しながらしなくてはならない。揺れる列車上では、かなり危険だ。年寄や女子供は、大人の助けを受ける必要がある。

 

 荷物を貨車の端に積み上げて、銘々がそれぞれに座席を拵えたそのとき、父がはっと気が付いたように

 「茣蓙を忘れた」と言った。

 「僕が取って来る」

 「何処で?」

 「家の畳を剥がしてくる。剃刀を貸して」

 発車までまだ三時間くらいはあったが、南台町の元の家までは、片道2キロ以上ある。

 危険な賭けだ。

 「もういい」と渋る父から剃刀を無理やり借りると、貴重品が入った小さなリュックを背負って貨車から飛び降りた。

 「それは重いから置いていきなさい」父がリュックを置いて行くように勧めるが、 

 「貴重品は肌身離すな」と父のいつもの口調を真似て、リュックを背負ったまま駆け出した。 

 

このときは、私はまだ祖母から逃げ出す気持ちは、はっきりとは無かった。祖母から逃げ出すということは父と別れることだが、それも止むを得ないとは思っていた。

 漠然と憧れていた北京、そこには少なくとも祖母のような鬼は居ないはずだ。

 私は。戻るまで列車が発車していることを願った。もし、列車が発車していたら一人で北京に行くつもりだった。

 南台町の元の家は、当然ながらもう他人の家だ。幸い裏の戸が開いていたので、そっと入る。畳を二枚剥がしたところで、家人に見つかった。30からみの男性が、出口を塞ぐように立ちはだかり大声で怒鳴る。

 私は、血の気が失せたがまだ冷静だった。

 次の瞬間を待つ。男が殴り掛かったその時だ。素早く身をかわし、体制が崩れた彼の脇の下を潜るように、表に飛び出した。あとは一目散に逃げるだけ。

 

 列車は、まだ発車していなかった。

 私は、迷った心のままもう一度賭けを試みた。茣蓙と剃刀を貨車の近くに置いて、物陰に身を隠したのだ。

 「けんちゃーん!けんちゃーん!」と狂気のように叫ぶ父の声が聞こえる。父はそれを見つけたのだ。しかし私の姿が無い。まさか逃げる気で隠れているとは思わないから、道路を只うろうろと走り回る。

 私は見つけて欲しいような、見つけて欲しくないような、半々の気持ちで息をひそめて運命の神に身を委ねた。

 

 やがて発車の時刻になった。

 動き始めた貨車に、父が飛び乗った。年老いた母、幼い弟。どちらも父を必要としている。

 「けんちゃんなら、しっかりしているから大丈夫だよ」。

 誰かが慰めるように言う。

 「けんちゃんは、いつも北京に行きたいと言っていたよ」と、同級生の子供が言ったとき、父ははっと思いあたった。貴重品の入ったリュックを何故私が持って行ったか。

 まさかとは思いながらも、今は只この向こう見ずな息子の無事を祈るしかなかった。

 ここはお国を何百里。敗戦後三年、祖国にも見放された人達が、ソ連軍の侵攻による、徴用,徴兵、避難、抑留、玉砕、虐殺、残留、遺棄、自殺、餓死、刑死、病死、凍死等々多くの悲劇的な別れをしてきた。それらに比べたら、この別れは喜劇かもしれない。子が親から自らの意志で離れたのだから。

 獅子の子は、自ら千尋の谷に身を投げた。

 

 2-2 北京への一歩

父と別れた私は、とにかく線路沿いに西へ向かった。

 大官屯、発電所、この辺までは、遠足で来たことがある。望花、古城子もよく耳にした地名だ。撫順から奉天までは、撫順中学の学生の、軍事訓練の行軍コースで、背嚢を負いゲートル巻きの少年が夜間行軍で歩いているのを見たことがある。

 撫順奉天は、遠足の延長位の軽い気持ちだった。そこから北京までは、想像も出来なかった。簡単な地図の上での北京は、それほど遠くは思えなかった。

実際は、撫順奉天が約50キロ。奉天北京が約700キロある。それがどれ位の距離か、距離の実感が無いまま、とにかく歩くしかない。

 

八月は、この辺は雨が多い。驟雨に時々襲われるが、幸い長雨は無かった。ぬかるみで靴やズボンが汚れたのは、むしろ望む所だった。旅支度の私は、あまりにも身綺麗にしていたから。目立つのは困る。

 

 国共内戦最後の決戦の幕はやがて切って落とされようとしている。

 私達の引き揚げ列車も、撫順から瀋陽までで、瀋陽から錦州までは、国民党の軍用機が用意されていた。瀋陽を離れたら列車の安全が確保できなかったからである。

 私達最後の引き揚げ者は、国民党の要請で残った技術抑留者の一団だった。蒋介石は安全帰国の約束を守って、軍用機を用意してくれたのである。

 軍用機は国民党の本拠地南方から東北へは軍需品の輸送で満杯だったが、戻り便は空いていたからそれが出来た。

 葫蘆島からの引き揚げ船もそうである。

 1 南方から葫蘆島へ国民党兵士の輸送。

 2 葫蘆島から日本へ引き揚げ者の輸送。

 3 日本から南方へアメリカの援助武器輸送と在日中国人の送還。

 三角輸送の一辺が日本人の引き揚げ船に使われた。船舶は重に上陸用舟艇が使われ、一部当時僅に残っていた、日本船病院船高砂丸と興安丸が使われた。

 内戦の緊迫で都市部には、農村から食料が入り難くなり、穀類は暴騰していた。しかし毎日の最低の食品、煎餅(高粱や唐黍の粉を、鉄板で薄く焼いた物)や、饅頭はまだ路上で売っていた。

 

 沿線のトーチカには、兵士の動きが慌ただしい。しかし治安はそれほど悪くない。どこの軍隊も平時の統治下では、占領政策を円滑に進める為にも、作戦の遂行上も無用の混乱は好まない。住民の宣撫と治安維持にはそれなりに力を注いでいた。

 両軍とも軍紀は保たれていた。人心を失ったら負けということを両軍とも心していたから、八路軍は「人民の物な針一本奪わない」と宣伝していたが、それは事実だった。

 蒋介石の言葉「以徳報怨」は、一般の兵士にも浸透していた。

そこは何処だったろう。子供の足で5時間ほど歩いた所で、小さな廟のような所があった。かなり荒れているが、夜露くらいはしのげそうだ。少し早いが大分疲れた。今日はここで寝ることにする。

 

当時多くの中国人は、貧困の極限にいた。

この辺には、山東省から流れてくる労働者が多く、彼等は「山東苦力」(サントンクリー)と呼ばれ、炭鉱など文字通り地下労働に従事し最低の生活をしていた。真冬でも吹き溜まりの中で、寒風を避け煎餅蒲団一枚にくるまってやどかりのように寝ていた。煎餅蒲団一枚が、彼等の全ての財産であり、家だったのだ。

水は高きから低きへ、経済は低きから高きへ。満州は傀儡と言われよう何と言われようと、周辺の山東省より経済的には高かった。満鉄は満州の産業振興の中心的役割を担っていた。それが、山東省などより経済の低い土地から人の流れを呼び込んでいたのである。

 

満州国を「傀儡」と断じたリットン調査報告書も、この実態を認めて「今満州国を無くすことは、実務的ではない」と日本の満州国の経営権その物は認めていたのである。

ここはそんな浮浪者にとっても良い塒だったのか、日が暮れると、風体の怪しい男性共が三々五々と集まってきた。

その中の一人が、私に問いかける。

「見かけない餓鬼だな。どこから来た?」

「あっち」と、東の撫順の方角を顎でしゃくる。

「どこへ行く?」

「あっち」と、西の瀋陽の方角をまた顎でしゃくる。

「ふーん」。男はそれ以上聞かなかった。

「俺も故郷にお前と同じ位の息子がいる。この辺は物騒だ、気を付けろ」

男性は、短く言うと鼾をかき始めた。

私も、貴重品を腹の下に包めて寝た。第一夜はとにかく無事に過ぎた。

 

2-3 彷徨う小羊

二日目は、東稜近くの荒れた建物。三日目は更に西へ20キロほど行って野宿する。

私が野宿に選ぶ場所は、宿無しの浮浪者達にとっても良い場所だった。

狼の群れの中の一匹の小羊。ライオンの群れの中の迷える縞馬。

それでも、一人で彷徨うよりはここが安全だった。

百獣の王ライオンと雖も、飽腹なら無用の殺生はしない。ここの狼達は、百獣の王でもない、飽腹でもなかったが、私を襲わなかった。

「窮鳥懐に入らば猟師もこれを射ず」

「人之初、性本善」

性善説では、この状況は説明出来ない。

集団の中の倫理、それを法と呼ぶなら、ここには辛うじてそれが存在していた。

もし一人が私を襲い、私が抵抗する。殺す。奪う。そこまでは容易だが、衆人環視の中での殺人は狼にとってもリスクが大きかった。治安を維持する者が存在し「奪うな、殺すな」という最低の法が存在していたからである。

 

以前、家の近くの道端でガラクタを売っていたのだが、そのとき不思議な体験をした。

ガラクタを商品として並べるとき、多くの群集が集まる。全員が何か手にして「これ幾らか!」と叫びながら一人の私に尋ねる。

もたもたしていると、かなりの品物が並べ終わるまで無くなっていた。

ある日、玩具の太鼓を一人の男性が持ち去った。これは私が大事にしていた物で、許せなかった。後先を考えず男を追う。

「金は後から払う」という男の手にむしゃぶりつき太鼓を奪い返してきたとき、何も残っていないのを覚悟していたが、なんと何も無くなっていない。一人一人の泥棒同士で互いに監視し合って店番をしてくれていたのだ。

 

そのとき、私は学んだ。

「悪人が悪を行うのではない。悪を行わせる状況が、悪を行わせるのだ」と。

混乱も群集心理も、その状況を生む。逆説めくが、私は狼と一匹一匹向き合うより、狼の群れの中に身を置く方がむしろ安全だった。それを、実社会の体験の中で学んでいた。

あれはいつだったか。八路軍が撤退し国民党が進駐した日。その間僅に生じた無政府無警察状態の中で暴動が発生した。

暴徒が通った後は、イナゴに襲われた畑同様箸一本残っていなかった。そんな中で同級生の玉井君(愛媛県出身)が暴徒に槍で殺された。彼は暴徒に抵抗した。

私達の居住区は日本人が多かったので、自衛態勢がとれた。その日緊迫した中で父が言った。「絶対に抵抗するな。命だけ大事にしろ」と。

私ももしここで何か有ったら、いざとなったら、命以外は全て差し出すつもりだった。

この辺は、まだ都市部である。人通りも多い。市場もある。差し迫った危険はないようだ。彷徨う小羊は、まだハイキング気分でいた。

 

2-4 地獄で仏

四日目、只ひたすら西に向かって歩いていたのだが、だんだん人通りが少なくなり、やがて西には何も無くなった。果てしなく広がる高粱と唐黍。僅の緑は、瓜畑か。

まだ陽は昇って間もないというのに、足に豆が出来て痛む。貴重品袋からメンソレを出して傷口に厚く塗る。

道端の池のほとりで、腰を下ろしているときだった。

「何処へ行く?」と農作業の馬車の主が声を掛けてくれた。

「飯は食ったか?」

私が首を横に振ると、「乗れ」と座席を空けてくれた。

以前父に「美味しい物をあげるとか、良い物をあげるとか、優しそうな言葉で言う人間には絶対に付いて行ってはいけない」と厳しく言われていた。

 

「これが人攫いだな」と、私の危機察知アンテナはアラームを出したが、私に危機感は無かった。彼にも罪悪感は無かったようだ。

人の好さそうな農夫の笑顔は、私を安心させた。

「孤児か?」

「うん」

「俺と一緒に行くか?」

彼は私の身形と言葉の訛りから、とっくに私を残留孤児と見抜いていた。厳密に言うと私は家出少年だが、まあ似たようなものだ。

日本人の子供は高く売れる。彼は胸算用をした。

「あの農家なら人手を求めていたし、この子を高く買ってくれるだろう」

彼は、たまたま子犬を拾った。それを欲しい人に譲って小遣いを稼ぐ。自分も子犬も貰い手も三方全て好。

私も彼を「人攫い」などと人聞きの悪い言葉は使うまい。彼は地獄で仏だった。

 

少し余談になるが、確か老舎の何の小説だったかの一節に、麦わらを簪にした少女の話がある。麦わらは「私を攫って下さい」というシグナルだった。

敗戦後の撫順でも多くの少女が、私の回りから姿を消した。彼女達は麦わらの簪はしていなかったが、明らかにシグナルを出していた。彼女達は私から見て玉の輿だった。

私は攫われて、むしろほっとした。

 

馬車が着いた先は、菜園と家畜小屋の周囲を広く柵で囲み、幾つかの広い母屋と作業小屋、作男部屋がある富農だった。商談はすぐ成立した。農夫がにこにこ顔で去った後、主人が作男に「何か食わせてやれ」と命じ私には

「畑のトマト、キュウリ、ナスは好きに食べて良い」と優しく言ってくれた。

作男頭のような男が、塩で茹でたじゃが芋を呉れて、

「欲しければまだ有るぞ」と言ってくれる。 

主人が作男頭に「色々教えてやれ」と言った後、私に対しては「明日から思い切り働いて貰う」と言い残して立ち去った。

「北京はまた行けるだろう。ここも悪くない」

私は、この親切な農家に身を寄せてもよいと言う気になっていた。

 

2-5 スパイの手先

翌朝、作男頭から農場の中のことを色々と教えて貰っているときだった。サイドカーに乗った国民党の将校が来た。あの林中尉だった。

「何故君がこんな所にいる?」と驚いたのは向うだった。

私が「引き揚げ列車からはぐれて、北京に行きたいと思っている」と半分本当半分作り話をすると

「北京は遠いぞ。子供の足では無理だ。どうしても行きたいか?」と聞く。

「うん」と頷くと、「一寸二人だけにしてくれと」と作男頭を遠ざけた。

「これから私の言うことは、一度聞いたら、断ることは出来ない。断ったら私は君を殺さなくてはならい。その代わり聞いて呉れたら北京行きは私が保障する。聞くか?」

「うん」と私はもう一度頷いた。

「二度は言わないからしっかり聞け」と林中尉がゆっくりと、語り始めた。 

「これから西へ20キロほど行ったらトーチカがある。その近くまでは人を付ける。このトーチカには絶対に近づくな。トーチカに沿って鉄条網があるが、南へ500メートル行くと、石ころと枯草の塊がある。その下が抜け道だ。君なら通れる。向うへ出たら西へ行け。集落がある。そこで誰でもよい、「馬大人」を探していると言え。誰かが水滸伝を持っているかと君に尋ねるがそれが合言葉だ。男にこの本を渡せ。そして北京に行きたいと言え。それで終わりだ」

 

二度は言わないと言ったが、林中尉は要点だけもう一度言ってくれた。

時は新中国建国一年前。国共内戦最後の決戦を前にして、国民党はすでに面としての支配地域を失い、辛うじて保った防衛線も各地で分断されて、グレーゾーンとも言うべき点が各地に存在していた。

撫順は国民党の支配下だったが、共産党の政治工作員と思しき人物が出没していた。

人だかりの後ろで、誰かが親指と人差し指で、「八」の字を作って尻の下でサインしている。「八路」の意味だ。

共産党の都市包囲網の中で、人々は食料と情報に欠乏していた。「八」の人達は、情報の運び屋でもあった。

内戦はまた、同族同士骨肉の争いだ。双方に、源を同じくする伏流水が存在しても不思議はない。それらが、地下で密かに繋がっていた。林中尉がどちらに水源を持っていたかは知らない。或は両方に持っていたかもしれない。

グレーゾーンでは、庶民は優劣が決定的になるまで旗色を鮮明にしていなかった。両方の旗を持っていたのである。その時々の支配者に敢えて逆らわず生きていた。信じられないだろうが、敗戦後暫くはまだ日の丸を持って居る人もいた。いつ日本軍が戻ってきてもいいように。

 

トーチカと鉄条網の向こうは、そのグレーゾーンだった。林中尉は、グレーゾーンと連絡の任務を持ってきた。しかし何等かの手違いで、連絡員が来なかった。そこで私をその連絡員として利用しようと考えた。

私は悪運があった。だから今生きている。

 

2-6 脱出

あくる日、林中尉がまた来た。

「この馬車で行け」と、中尉が指示した馬車の主は、先日の農夫だった。

「さあ行くぞ」屈託のない人の好さそうな笑顔は、あの仏の人攫いのそれだった。

彼は私が何をしに行くのか、何も尋ねなかった。聞いても答えられないことを知っていたのだろう。

高粱畑の間の道を5時間ほどで遥か右にトーチカが見える所に着いた。

「俺が言われているのは、ここまでだ。腹が減ったら食え」と大きな饅頭を二個呉れて、農夫はもと来た道を戻って行った。

 

まだ陽は高い。私はトーチカの銃眼から隠れるように、高粱畑の中に身を横たえた。高粱畑の中を南へ、トーチカの鉄条網に沿ってゆっくりと500メートルほど移動する。しかしこの一帯は、高粱が刈り取られていて、それ以上鉄条網へ近付けない。

闇を待つしかない。饅頭を食べ、非常袋の中の水筒の水を飲み眠ろうとするが、却って頭が冴えて眠れない。

私は、母に抱かれた記憶がない。

母が亡くなる前、一度だけ「あなたが、私の遺骨を抱いて日本に帰る」と私を膝に抱きしめて泣き崩れたことがある。結核を患っていた母は、感染を恐れて私をあまり近づけなかった。

 

日が暮れた。幸い月は無い。星明りだけを頼りに、昼間目星を付けていた地点に這うように身を屈めて進む。抜け道はすぐ見つかった。

それを潜り抜け、やれやれとほっとしたときである。

「誰か!」と大声がした。

歩哨の巡回に見つかったのだ。これは、林中尉の教えてくれた筋書きに無かった。

「我!我!我!」と私は中国語でやっとそれだけ言うと、両手を挙げて立ち上がった。

恐怖にひきつって、それ以上は言えなかった。余計なことを言えなかったのは、却って幸いだったかもしれない。

歩哨がカンテラで私の顔を照らすと「なんだ子供か。行け!」と見逃してくれた。

私は転がるようにその場を離れると、集落の近くの、僅に樹木が茂る小さな丘陵の下で、今度は夜明けを待って身を横たえた。

 

地平線に朝日が射した。その一瞬小鳥達が一斉に囀り声を上げた。どこにそんなに居たと思えるほど、多種多様な不協和音だ。

タンバリンのような小鳥の囀りに混じって、とても鳥の声とは思えない、金切り鋸を引いたような不思議な声もある。

それも短い時間だった。小鳥達がそれぞれに群れを作り餌を求めて飛び立つと、また元の静寂が戻った。

集落の竈にも煙が見える。そこはここから近い。私も起き上がり、そちらへ向かって歩いた。

 

2-7 八路軍少年兵

農家30戸ほどの小さな集落には、屈強な若い男の10人足らずの武装集団が居た。彼等に「馬大人」を尋ねたらすぐ分かった。腰に拳銃を下げた30前のリーダー風の男性が、「水滸伝を持っているか」と私に聞いた。

私の大役は無事終わった。

 

「北京に行くのだな。俺達は明日阜新に行く。そこから北京へ行くよう手配してやろう。朝飯はまだだろう」と、粥と豆乳を用意してくれた。

阜新は、3月に解放されたばかりだったが、市内には八路軍の正規兵が満ちあふれていた。正規兵と言っても服装はまちまちで、輜重兵は、素足で天秤棒を担いでいた。

部隊長風の男性が、

「ここには日本人も居るぞ。と連れて行ってくれた先に居たのは、なんと門脇さんだった。

「お前達知り合いだったのか。丁度良かった。門脇お前この子の面倒をみてやれ」と部隊長が言い残して立ち去った。

門脇さんも北京を目指したらしい。何とか瀋陽を抜けたところで、捉えられるようにして、八路軍に入ったという。

「ここには、俺以外にも元日本兵が大勢居る。俺達は部隊の労農学校で革命教育を受けている。こないだ、地主富農の公開処刑があった。おれも一人やらされた」と浮かぬ顔で言う。

人民裁判で有罪になった地主富農が、予め自分で掘らされた穴の前に手足を縛って並ばされ、それを銃剣で一人一人突き殺す。

門脇さんの表情は、暗く浮かなかった。あの親切な龍鳳の農家の主はどうなるのだろう。

私も、仏の人攫いに連れて行かれた農家の主の身の上が心配だったが、どうしようもない。

 

又部隊長が来た。 

「どうだ、お前も少年兵になるか?」

「私は北京に行かなくてはならない」

「北京に行ってどうする」

「それは北京で言います」

彼は私が北京でまだ別の任務があると思ったのか、それ以上引き留めなかった。

「いつでもその気になったら来い。俺達は歓迎だ。明日列車を手配してやろう。ここから北京はそれ程無い。一日も乗ったら着くだろう」と言い残して、又立ち去った。

列車は、山間部の山並みを縫うように走る。

途中駅で幾度か長い停車をしたが、ほぼ一昼夜走った所で、万里の長城を越えた。

列車の乗務員は、私のことを部隊長から聞いていたのか、「気をつけていけ」と私を自由にしてくれた。

やっと憧れの北京に着いた。

私は当てもないが、とにかく人通りのある方向へ歩くことにした。

 

3-1 北京第一夜

北京の朝靄は、夏とはいえ少し肌寒い。日差しが昇るにつれてさわさわと吹き始めた風は、ポプラの葉を落とし秋の香りさえした。

私の北京に対する知識は、「中心が故宮で、天安門という大きな門がある」それ位しかない。

緩やかな人の流れは、朝の太陽を左にして南に向かっているから、ここは北京の中心から北のようだ。それも大分離れているようだ。

 

京に田舎在り。四方には畑が点在し、農家の幤屋、アンペラ小屋も散見された。アンペラ小屋とは、レンガ小屋の屋根をコールタールで塗り固めた壁の回りに、アンペラと呼ばれる高粱殻で編んだ筵が立てかけている、最低の住居とも呼べない住居だ。

八路軍の少年兵の誘いを断って、一人中心方向へ向かって歩いていたとき、朝の便意を催した。何か食べた物が悪かったのか、水が悪かったのか、昨日から便が柔らかい。

幤屋の物陰で用を足そうとしたとき、ズボンを脱ぐ間ももどかしく、大便をズボンの中にし被ってしまった。汚れたズボンから大便を拭きとっているとき、隣に年の頃16,7才の大柄な少年が座った。

「腹を壊したのか?何処から来た?」

「東北」とその方角を指さす。 

「えーっ!ほんとか、何処へ行く?」

「北京」

「ここが北京だ。お前行く所が無いようだな。俺について来い」と、先に立って歩き始めた。

 

少年の行き先は、すぐ近くのアンペラ小屋だった。広さ20平米はあろうか。中は意外に小奇麗にしていて、オンドルと呼ばれる、竈と暖房を一つにしたような高床の上に、煎餅蒲団が数枚畳まれているが、家具らしい家具は何も無い。

私と同じ位か、少し年少かと思われる少女が居た。

「新入りだ。腹を壊している。お前面倒見てやれ」と少年が少女に命ずる。

「うわー臭い!さっさと脱ぎなさい」と少女が私のズボンを手早く引きずり下ろす。

きまり悪そうに、縮こまっている小さな「おちんおちん」を隠す場所も間も無い。

少年が私の額に手をやる。

「熱が有るな。休め」と蒲団を引き始めた。

「こういう時は、暖かくして寝るのが一番だ。腹は一日食わなかったら治る。明日の朝お粥を作ってやるから、ひもじいのは我慢しろ」

更に少女に向かって

「お湯を沸かして飲ませてやれ」とてきぱき適切な指示を出して、何処かへ出かけた。

 

夕方少年が帰ってくる。

秋にはまだ早いが、日は大分短くなっていた。辺りが暗くなると、少年が私の蒲団に潜り込んできた。正確に言うと、私が少年の蒲団に寝ていたのだが。

「お前まだ毛が生えていないのだな」と小声で言うと、私の手を取り、自分の一物を握らせた。本日心ならずも公衆の面前に晒す破目になった私の13才のおちんちんは、まだ白い唐辛子だった。

少年の陰毛は見えないが、ふさふさと手首に当たる。一物は成人のそれだった。

私は求められた訳でないが、何を求められているかは,分かっていた。

私の手の動きにつれ、彼の一物も躍動する。

やがて、薄い煎餅布団を突き破るような激しい液体の噴出とともに、動きが止まった。

隣の少女は、とっくに寝ている。

彼が鼾を書き始めるまでの時間も、それほど長くは無かった。

私も長旅で、やはり疲れていた。昼間あれだけ寝たのに、また深い眠りについた。

 

 3-2 新しい仲間

 翌朝、完全に疲れが取れた私の体は、昨日までの慢性的な気だるさが嘘のように軽い。

 空腹さえ、むしろ心地よい。

 「ズボンは乾いているよ」と少女がズボンを手渡してくれた。

 昨日は、昼も夜も寝ていたので気が付かなかったが、チビが二人いた、

 八才位のすばしこそうな男の子。まだ尻割れの嬰児服を着ているが、三、四才位の女の子。

 「紹介しよう。まず俺は大牛だ。本当の名前もあるにはあるが、通称でいいだろう。俺を呼ぶときは、大哥(兄貴)と呼べ」続いて「俺の妹だ、別嬪だろう」と少女の紹介をしようとしたとき、少女が自ら

 「私のことは婷姐(婷姉さん)と呼んで」とやや命令口調で言う。彼女は私より若いかもしれないが、豊かな胸のふくらみも、丸い豊な体つきもすでに女性だった。何より当時130センチにも満たない、チビの私に対して150センチ以上ある彼女は、堂々たるお姉さんだった。

 「僕は二牛」とすばしこそうな男の子が言う。只横でにこにこしている女の子を指して、

、「僕の妹、小妹だ」と紹介してくれた。そのとき大牛が意外なことを言った。

 「俺たちは、この子に食わせて貰っている」と小妹を指さす。

 なんのことだと、私が訝っていると、

 「俺の妹とこの子二人で、盛り場で他人の情けを受けている。早く言えば乞食だな。俺は彼女らの紐だ」

 

 「金なら少し持っている」と腹巻に父がいざというときの為に縫い付けくれていたのをほどいて、差し出した。

 「いいだろう。ここでは俺が持っている方が安全だ。要るときはいつでも言え。元々お前の金だ」と大牛が中身も確かめずに、それを懐に入れた。

 「遠慮せずに使ってくれ」

 「要るときは使わせて貰う。俺達は仲間だ。皆絶対に仲間を裏切るな。それだけは言っておく」

 「そうだ、お前のこと名前も聞いていないな」

 「私なら(けん)だ」

 「けい?」中国人は(ん)の発音が苦手で、彼も「けん」を「けい」と言い難そうに発音した。

 「どうだ、俺が良い名前を付けてやろう。(阿K)はどうだ」。と新しい名前と共に私も新しい仲間の仲間入りをした。

 

 大牛が言う。

 「俺達の親は死んだ。このチビ達は近所の子だが、父親が死んだら、母親は別の男と何処かへ行った。男が連れて行ったのか、女が付いて行ったのかは知らない。俺は男と女のことは分からない。しかし親が無くても子は育つが、女は一人では生きていけないからな。そうだろう?」と私に同意を求めるが、私も勿論分からない。

 「小妹は本当に可愛いだろう。この子の無邪気な笑顔を見ていると俺も癒される。そしてこの笑顔でこの子は稼いでいる。俺はこの親を知らない子供達に、いつも言ってやるのだ、お前のお袋は優しかったよと。可愛がられずに育った子が、こんなに良い笑顔をするはずがないだろう」

 

 そこまで、大牛がしんみりと言ったとき、私の頬に涙が流れた。それが大河となってとどまることを知らなくなった。

 号泣したのである。手放しで。

 皆は、私がはぐれた両親を慕って泣いたと思ったのだろう。そのままいつまでも泣かせてくれた。

 親を捨てた子。親に捨てられた子。親無き子供達が、生きていくために、更に心の結びつきを深めた。

 

3-3 バーベキュー

 二牛がとんでもない物を拾ってきた。

 「どうだ、凄いだろう!」

 「うわ~美味しそう!」婷姐と小妹が歓声をあげる。

 「何処で拾ってきた。でかしたではないか」と、大牛が褒める。

 

犬の死骸だ。黒か茶か、昨夜の雨で毛が泥まみれに汚れて、色は定かではないが、体長50センチ位の成犬だ。

 腹部に出血があるが、それが致命傷か。すでにそこには蛆がわいている。

「そんな目で俺を睨むな」と言いたくなる無念の形相で、牙をむき出しにして私を睨む。

 実は、昨日裏山の墓地みたいになっている所で、私もこれを見つけていた。少し離れた場所に、腹部を食い破られた嬰児の死体があったのは、多分この犬の仕業だろう。

 しかし、私にこれを拾って帰る発想は無かった。

 

 大牛と婷姐が、慣れた手つきで犬を捌く。二牛が、火の支度をする。小妹までが、何かそわそわしている。

 「お前は近くの畑で葱を失敬してこい」私は、大牛に命ぜられて、野菜の調達に行った。

 焼肉の香りが、遠く漂う中を私は一束の葱を手に帰ってきた。

 皆、焼きあがった肉を前に円座を作っていた。無念の形相の犬の首は切り取られ無造作に傍らに置かれていた。

「醤油が有っただろう。今日みたいな日に使え。さあ皆思い切り食え」

大牛の弾んだ声を合図に宴は始まった。

 

 「どうした?」

大牛が、あまり箸が動かない私を戒めるように、問いかける。 更に、

「阿Kお前、生きるということは何か分かるか?」と、禅問答のような問いかけがきた。私は小さく首を横に振る。

「生きるということは、食うことだ」暫く間をおいて

「死ぬいうことは、何か分かるか?」と更に思いがけない問いかけがきた。私にとって死は、話題にするのも只恐ろしいことでしかない。それが何か、考えたこともない。

母の死、二人の妹の死、私はすでに三人の肉親の死と向かってきた。

 

深い沈黙の時間が流れる。

「死ぬということは、食われることだ。さあ、食われたくなかったら食え」と、大牛が香ばしく焼き上がった骨付き肉の塊を、私の前に差し出した。

腸を食いちぎられた、嬰児の死体。傷口に蛆虫がわいた無念の形相の犬。それらがどうしても瞼にこびりついて離れない。

こういうとき、父はそれを食べるまで絶対に何も呉れなかった。

 「腹が減ったら何でも食べる」

 それが、貧困家庭で育った父の哲学だった。お蔭で、私は偏食はない。何でも食べる。

私は飲み込むように、やっとそれを食べた。

生きることは辛い。しかし食われるよりましだ。

飽食に満ち足りた仲間達が、生きることを学んだ私を、「好!」と笑顔で祝福してくれた。

心なしか、犬の形相にも笑みが浮かんだように見えた。

 

 3-4 漢奸

 私の貴重品袋には、ハーモニカが入っていた。久し振りでそれを取り出して吹いたら、皆が「好!」と褒めてくれる。

 国旗の歌「白地に赤く♪」あの曲を吹いているときだった。大牛が「それは何だ」とせき込んで尋ねる。

 「日本の国旗の歌だ」と私が答えると、

「そうだったのか」何かを悟ったように彼が大きく頷いて言う。

 「この歌を歌うと、日本の兵隊が、飴をくれた」

 多分日本軍の宣撫隊が、子供に歌わせたのだろう。

 

「お前にまだ俺の親父が何故死んだか言ってなかったな」一息おいて,

 「俺の親父は、日本兵の手先だった。その歌を歌う子供達を集めるのが親父の仕事だった」また間が空く。

 「お前わかるだろう。これは好い仕事だった。金になる仕事だった。金だけではない。当時なかなか手に入らない、砂糖も我が家にはあった。米も唐黍も大豆も不自由したことは無い。親父は器用な男で、簡単な日本語も話せた」

当時の中国人は、文法を無視して中国語の語順のまま日本語の単語を当てはめた言葉と簡単な中国語をごちゃ混ぜにした、独自の日本語を使っていた。

例えば「ターターデヨウ」(多多的有)。意味は「沢山ある」である。

彼が一人で語り続ける。

 「その後どうも憲兵隊とも繋がりができたようだ。羽振りは更に良くなった。なあこれは悪い事ではないだろう?親父の才覚だ」と私に相槌を求める。

 

撫順でもあった。撫順の最後の憲兵隊長はH某だ。久保町の我が家の一軒隣りだった。同級生の娘さんが居たから私もよく覚えている。彼は敗戦後一早く撫順を離れたらしい。らしいというのは、無事逃げたまでは風聞で、彼の腹心の部下陳某が、撫順市公署前で漢奸として、公開銃殺されたのは風聞ではない。

 罪状は、憲兵隊長の逃亡幇助である。

 当時絶大な権力を持った憲兵は、また情報も握っていた。彼等はその権力と情報を、我が身の安全保障に使った。利用されたのが、漢奸と呼ばれた中国人である。狐の抜け道に餌をたっぷり貰った兎が囮として配置された。

 

 大牛の父も戦後人民裁判で、漢奸として公開銃殺された。権力者の恩恵を受けた分だけ、逃げきれない物が有ったのではないだろうか。

 母親の死は、もっと悲惨だった。母親は美人だったという。婷姐を見たら分かる。父が殺された後、ある男の女房と女同士髪を引っ張り合う猛烈な公開バトルをやる。

格闘は痛分けだったが、数日後彼女は、素っ裸で樹木に括りつけられ殺されていた。

大牛はそれ以上語らなかったが、こういう場合中国人は女性の局部に棒を突き刺し、野犬の食い荒らすままに放置する。

 

 大牛が言う。

 「人は必ず死ぬ。どんな死に方をするのも一つの死に方だ。戦争は必ずどちらかが勝って片方が負ける。親父は負けた方に肩入れして殺された。まあ人生の大博打に負けたようなものだ。もし親父を漢奸というなら、当時の中国人は、皆漢奸だ。皆好い思いをしたかったが、才覚のある者だけがそれを出来た。俺は親父は赦せるが、母親のことは分からない。俺は女が嫌いだ」

 大牛の鋭い語気の中には、少年の潔癖感があった。

 

3-5 泥棒

 表通りに、間口10メートルほどの少し大きな雑穀商があった。

 私はここで時々落花生を買っていた。

 その日は、折あしく店には誰も居なかった。ふと帳場を見ると、算盤があった。

 私は、それが無性に欲しくなった。

 そっと手に取ってみたが、人の気配はない。

 それを懐に、さりげなく表へ出た。中で人の気配がする。急ぎ足で表へ出た時後ろから男の大声が聞こえた。緊張で頭の芯がきりきりする。

 

 私は路地裏に逃げ込んだ。入り込んだ胡堂の細道は、すぐ袋小路になった。大きな獅子の門飾りの陰に身を隠したときだった。二牛がどこで見てたのか、私の傍に来た。

 「それを寄こせ」

 彼は私から算盤を手にすると、勝手知った路地裏の裏を、素早く駆け抜けた。

 手代が私を見つけた。小さな私の胸倉を掴んで、吊し上げて言う。

「太いガキだ。さあ盗ったものを出せ!」

「私は何も盗っていない」

「嘘つけ!何故逃げた!」

「逃げたのではない、小便がしたかった」

騒ぎを聞きつけて、野次馬がたかる。

主人の老板も駆け付けて来た。

手代は、更に私を打擲しながら厳しく詰問するが、証拠が無い。

必死に哀願する私に、野次馬裁判官はニタニタ笑って無言だが、雰囲気は無罪判決だった。

最後老板の「もういいだろう、放してやれ」の一言で私もやっと解放された。

 

小屋に戻ると、思いがけずも大牛にいきなり、一発頬を張られた。

「何故あんな物を盗んだ!」

「欲しかった」

「俺達が市場でかっぱらいをするのも、畑の作物を失敬するのも、乞食をするのもみな必死に生きる為だ。お前みたいに、唯欲しかったなんて甘えた気持ちで盗みはしていない。分かったか」

「うん」

「いいか、盗ったら盗られた者がいる。盗られた者の仕返しが、裁きだ。俺は善悪でお前を説教しているのではない。お前はあのとき、殴り殺されても文句は言えなかったのだ。偶然二牛が通りかからなかったら、どうなっていたか。運の強い奴だ」

私はここでも、自分の悪運の強さを思った。

 

「お前、何故日本が負けたか分かるか?」

「それは、アメリカの物量作戦にやられたからだ」

「違う違う。盗ったから盗り返されたのだ」

まだ軍国少年気分が抜け切れていない私の頭は、ガーンと新鮮な衝撃を受けた。

敗戦後、半年して再開された学校では軍国主義教育から180度反転した民主主義教育が行われていた。教科書は、「飛行機」という文字すら軍国用語として墨で黒々と塗り消されていたが、以前のままの教科書だった。教える教師自体が、つい半年前までは「天皇陛下万歳」を教えていた人達だ。

 

父も「満州国は侵略ではない」といつも言っていた。日本に住む場所を亡くして親の代から中国に住み着いていた父は、本気で「五族共和、王道楽土」の建設を夢見ていた。

満鉄の人達も、その技術でこの土地に貢献してきたことを誇りに思っていたし、私達はその技術を必要とする中国の要請で、敗戦後も抑留していた。敢えて「抑留されて居た」と言わないのは、皆多かれ少なかれ使命感を持って残ったからである。

父は技術者ではなかったが、技術抑留者の子弟に国語や中国語、英語などの教育に携わる為自ら志願して残った。

 「もしここで、中国人に殺されるなら本望だ」と言っていた。日本より中国生活の方が長い父にとって、日本は「帰る国」というより、「行く国」だったのだ。

 

しかし、大牛の反戦教育は分かり易かった。奪った側が「王道楽土」など、なんと屁理屈を言おうと、ここには奪われた人達が居た。それを奪ったのが日本で、日本は奪い返されただけだ。

 

3-6 寺子屋

ある朝、小妹が壁の棚に背伸びをしていたので、抱き上げてやったら、もっと高くという。

「もっともっと」言うから、肩車をしてやったら、「きゃーきゃー」言ってはしゃぐ。

死んだ妹が元気なら、丁度この年だ。

二牛も加わって、押しくら饅頭のようなことをして、じゃれ合いながら、ちょっとくすぐってやったら、小妹が、もう悲鳴に近い嬌声を上げる。

「何やってるのよ」と婷姐まで騒ぎに加わってきた。

彼女の豊な胸を押し付けられたとき、今度は私が息を詰まらせた。とたん股間に強い衝撃を受けて、思わず「バカ!」と日本語で怒鳴ってしまった。彼女が私の唐辛子を握りしめたのだ。手を挙げたら、

「小東西(ちいさなちん)あかんべー」と赤い舌をペロッと出して逃げられた。

 

夕食のときだった。彼女が聞く。

「バカてどういう意味?」

「バカはバカさ」

「阿K、あんたまだ日本語を覚えている?」 

「当然だろう」

「(吃飯)は日本語で何と言うの?」

直訳したら、ご飯を食べるだが、私は「吃」が中国語で日常の挨拶だということを知っていた。だから敢えて「こんにちは」と教えたら、彼女が綺麗な日本語で真似してこれを言った。

お世辞抜きで「上手だな」と褒めたら、「本当?」と「これ何?これ何?」と手当たり次第に回りの品物を指さして聞いてくる。

「布団」「茶碗」「箸」「水」「石」などすぐ覚えた。

 

大牛が私に尋ねる。

「阿Kお前字が書けるか?」

「うん、少しなら」

「俺の名前は王XXだが、書けるか?」

「XXの字が私には難しくて書けない」

 彼が少しがっかりしたようなので、 

「大牛なら書けるよ」と。地べたに大牛と大きく書いてやったら、彼すっかり喜んで、

「よし、これから俺の名前は王大牛だ、うん、良いい名前だ」と自分で自分の通称を本名にしてしまった。

「俺は学校に行っていない。字を習いたいな」 

「自分でも勉強出来るよ。このあいだ、君に預けた金はまだ有るかい?」

「一銭も使っていない」 

「ならあの金で、本を買いなよ。それから小妹にズボンを買ってやりなよ。もう赤ちゃんでないのだから」

私が肩車してやるのに、尻割れ服ではどうもまずい。

「そうだな。小妹も喜ぶだろう」

大牛が買って来たのは「三字経」だった。

「人之初」と私が読むと、「性本善」と彼が続ける。彼に取って当然ながら中国は母国語だ。だから読めなくても書けなくても話せる。意味の解釈は無用。私が読めない字が有っても前後の字が読めたら、彼がその字の読み方を推測する。

 

「お前この間算盤なんか盗んで来たが、出来るのか?」

私がぱちぱちと披露したら、彼すっかり感激して

「お前は何でも知っているな。これからは阿K老師と呼ばせて貰う」と、私を畏敬の眼差しで眺めた。

大牛の文字学習は、海綿が水を吸うように急速に進歩した。

婷姐の日本語も、語彙が格段に増えていた。食べる、走る、聞く、話すなど簡単な動詞もすぐ使えるようになった。

北京の一角の寺子屋で、私は浮浪児相手に「阿K老師」と尊敬を受ける身になっていた。

 

3-7 大団円 再会、別れ、再見

1949年10月1日新中国建国。日本との間に正式な国交は無かったが、日本共産党と社会党は友党として、党間の交流はあった。貿易も細々とはあった。密貿易かもしれないが、それを取り締まる法も整備されて居なかったし、まだ両国とも、司法そのものがしっかりした実態が無かった。

 

父は、まだ中国に個人的な友人も居たし、旧満州国の人達も、皆それぞれの機関でそれなりの立場を持って仕事をしていた。

父がどのチャンネルを使ったかは知らない。

1950年春、父はとにかく北京まで来た。そして旧満州時代の友人、その友人、その又友人の手蔓で、私を探し出した。

「浮浪少年の中に、日本語を少し話せる子供が居る」という情報を得た。私は日本語をなるべく話さなかったから、その子は婷姐だった。その後私はすぐ見つかった。

再会した父を前にして、私は無言だった。あの家出以後、私は父に対して感情をあまり示さない子供になっていた。

 

別れの時がきた。

大牛が言う「俺達のことを忘れるなよ」   

「勿論」

「また会いに来る」と婷姐に対して私はやっとそれだけ言うと、母の形見の珊瑚の簪を、父に見えないようにそっと握らせた。

二牛は少しは分かっているようだが、何のことか分からない小妹は、いつもの無邪気な笑顔で只にこにこしている。

 

父と、祖母、弟は広島郊外の祖母の妹の家にお世話になっていた。広島は、駅から比治山まで樹木一本無い、まさに一望千里焼野原だった。

祖母は「へーあんた一人で北京に行っとった?ずつなかったろう(辛かったろう)」と広島弁で、労わるように迎えてくれた。

祖母は、晃さんと幼い弟と三人、何のストレスも無い彼女にとって理想の生活の中で、普通の祖母になっていた。

祖母が私の好きな豆腐の味噌汁を作ってくれた。

祖母は、三ミリ角に小さく刻んだ豆腐の味噌汁を一人一人小さな鍋で作った。

これだけ小さく刻まれた豆腐の食べ頃は一瞬しかない。大鍋ではその一瞬は掴めない。

夫と大勢の子供達に一人一人に作ってやった遠い昔の味噌汁。晃さんと二人だけの味噌汁。一人寂しく食べた味噌汁。

じっと小さな鍋の横に佇み、その一瞬を待つ祖母の姿の中にはそれが凝縮されていた。

祖母の味噌汁は、愛情の結集だった。

「こげんもんが、そなに美味いか」と言った言葉は、孫に対する言葉だった。

 

父はその一年後再婚する。鶏寧で祖母がお世話になった女性だ。然し幸せは長く続かなかった。「晃さん」を取られた祖母との間に葛藤が生まれ、それは祖母が亡くなるまで25年間続いた。祖母は享年93才まで長寿だった。

 

父は私を進学させようと高校へ入れてくれたが、私はこの愛憎葛藤地獄と家計の困窮を見かねて自分で中途退学し、逓信省四国電気通信学へ入学した。今度は家出ではないが、又祖母から逃げた。

逓信省は、後に電電公社を経てNTTになる。

その後勤続40年。23才で結婚し、二人の娘も出来る。郊外にマイホームも持ち、やっと私も人並みに家庭的幸福を知る。

定年後15年、72才のとき50年近く連れ添った妻が亡くなった。

これまでも何回か中国へ旅行では来ていたが、妻の一周忌が終わると、私は矢も楯もたまらず、また中国で暮らしたくなった。

 

その強い思いが、遠い昔の夢の世界へ誘う。

北京の街角で、「今日は」と綺麗な日本語話す年輩のおばちゃんが居た。

「あーっ婷姐だ」と私は直観した。

彼女は母の形見の珊瑚の簪を付けていた。つぶらな大きな瞳は、紛れもなく婷姐だった。

思ったより小さく見えたのは、私が成長していたのだ。

「阿Kだ。また会いに来たよ」

「60年だね」彼女はこの別れの期間を正確に覚えていた。

「大牛は元気か?」

彼女が首を横に振る。 

「昨年病気で死んだ。私達はいつも阿Kの話をしていた」

「二牛と小妹は?」

彼女がまた首を横に振る。

「元気なはずだが、その後分からない」

「これで、大牛の霊を弔ってくれ」と私は少し用意していた人民元の包みを差し出した。

「また会いに来るよ」

「また60年待つよ」と彼女が昔のままのいたずらっぽい目で笑った。

その時だった。急に少年の心が蘇った私は涙が止まらなくなった。

婷姐が優しく号泣する私の背中を撫でてくれた。

私は涙声のままやっと「再見」と言った。

 


 

再見!北京

白塔に雲遠く棚引き

馴れ初めの北海

淡き想い胸に芽生えど

言うべき言葉知らず

あ!閉じないでくれ

昨日の扉を

北京よ 再見

 

千頭椿薄く頬染め

さすらいの香山

幼き日の想い語りて

ときの過ぎるを知らず

あ!叩かないでくれ

今日の扉を

北京よ 再見!

 

夜汽車の汽笛細く尾を引き

うつろいのいわ園

たぎる心千々に乱れど

抱くべきすべを知らず

あ!開けないでくれ

明日の扉を

北京よ 再見!

 

梢に一葉散り惜しむポプラ

病葉の天壇

去るべきとき来たるを知れど

行くべきところ知らず

あ!閉じないでくれ

潤む瞳を

北京よ 再見! 再見! 再見!

 

 

後書き

 

この物語を書いて私の収穫は、ここで「鬼」と書いた祖母が理解できる存在になったことである。

今は祖母がよく口にしていた「業」という人の世の営みの悲しさを嘆いていた言葉の意味が、少し分かったような気がする。

 

母方の祖母がある日「この子は苦労している割りにひねくれていない」それを私にでなく、他人に言っているのを耳にしたとき、私は心から嬉しかった。その後の人生で常に支えになった言葉である。

母亡き後、5年後に父は再婚した。義母は、私より15才上の活発な女性で、父が鶏寧県に赴任していたときの上司の義妹である。当時15才の私と父が入っている風呂に一緒に入ってきてどぎまぎさされたことがある。

「私のことならお姉さんでもお母さんでも、呼び易いように呼んでね」と、我が子以上に可愛がってくれた。九年前に他界した。この人も祖母と晃さんとの間で、生涯「業」を背負った。

 

妻は、11年前に50年近く連れ添って死んだ。

生前「貴方が私以外の女性にもてるはずがない」と可愛くないことを言っていたが、もし叶うなら、この物語を一番読んで欲しい女性だ。私の一番良い理解者だったから。

父と母のことは、この物語で書けなかったことを少し書いておきたい。

母はやはり一人の女だった。離婚後子を捨てても一人で生きて行けなかった。

長崎に預けられている間、私は母の記憶がない。乳母の写真が何故有った。その写真が何故消えたか。

母方の祖父がまだ元気なとき、「何故そのとき僕は一人だったの?」と尋ねたことがある。

祖父は「お前自分の母をそんなふしだらな女と思うのか!」と唐突に猛烈に怒りだし、私を困惑させたことがある。

この時の祖父。この物語の「葛藤」の篇で書いた矢絣の着物で敷居に三つ指を付いた母と黒檀の机の前に座ったままぎこちなく母を迎えた父。

以下はそれらからの推測である。

父は愛情表現が出来なかったのではない。それを簡単にさせない事情が有ったのだ。

母は祖母から追い出されたのではない。私のように逃げ出したのだ。

復縁の為には、別の別れを作っていたのだ。

母の男が原因で別れたとは思わない。然し母も別れた後一人で生きていけない普通の女性だったのだ。例えそうだったとしても、母は私にとって落ちた偶像ではない。

その時の母は、今の私の孫娘の年だ。私は母に抱かれた記憶はないが、今は母を抱いてやりたい。

今私も当時の祖母の年を大きく越え、やがて人の必ず行く所で祖母と会う日を前にして深く思う。祖母にとって晃さんは、自分の子供である以前に一人の男性として心のよりどころでもあった。だから「晃さん」と敬称を付けて呼んだのだ。知らぬ異国で傷心の女一人では生きてはいけなかった。溺愛は母性愛だけではない。

 

父は、私が家出をしたいのは薄々感づいていた。私が茣蓙を取りに南台町に行ったとき、もし私が戻らなかったら自分も中国に残るつもりだったと言う。

その父も17年前享年90才で他界した。

私は男だ。今中国で一人生きている。一人暮らしを満喫している。それは多くの女性のお世話を受けて成り立っている。

私は大牛君のように女嫌いではない。女性は生物としての雌だけではないことを知って、私は生きている。亡妻に言う。私は君以外の女性にももてる。この世の全ての女性に感謝する。

 

 もう一つ感謝したいことがある。

大牛少年と二牛少年は実在する。私は今瀋陽のある施設で日本語を教えているのだが、余暇に近所の子供達に囲碁と尺八を教えている。その中に居る。大牛君九才、二牛君7才。

実在すると言っても名前だけ一緒の少年だが、私は初めてこの少年達に会ったとき、「嗚呼私はこの子達の年頃だったのだ」と改めて過ぎし70年前の感慨にふけった。

そしてかねて温めていたこの物語を書きたいと強く思った。

実在する大牛君と二牛君、それに私に怒られながらも楽しそうに囲碁尺八を学ぶやんちゃな子供達のお蔭で、私も少年の心が蘇り一気に書き上げることが出来た、

子供達に感謝する。謝謝。