唐土遍路(前書き)

  私も馬齢を重ね、いつしか83年。父が旧満州国で官吏をしていたので、生まれて間もなく旧満州国に渡り、以来なにかと中国に関わってきた。
  だから私の生涯は、旧満州国から始まり、日中戦争、内戦、新中国の建国、その後の改革開放、一帯一路・・・それは中国の近代史とそのまま重なる。

 
  思えば我が家は、家庭の事情で祖父の代から中国で暮らし、子供の頃から中国で育った父もまた中国の申し子だった。

 だから、大同学院(旧満州国官吏養成所)を卒業して、旧満州国資材局に奉職した父は、「王道楽土」の建国を心から夢見ていた。我が子即ち私に、「献 」(献上の献)と名付けたのは、皇帝「溥儀」に愛しい我が子を献げるという意味である。そしてこれが「けんさん」の名の由来である。

 この名前が私の生涯の運命を支配する。

満州国を最後まで侵略と認めなかった父と、戦後民主主義教育を受け、労働組合の運動の中で歴史を学んだ私と、この面では最後まで二人の意見が合うことはなかった。しかし議論することもなかった。お互いに言いたいことは痛いほど分かっていたから。

 退職後、私はこの宿命の名前を引きずって、北京語言学院に語学留学をした。そのとき父が喜んで、留学費用とそれ以上の物を出してくれた。

 父にとって我が子「献」が新中国と関わって生きていくことは、心ならずも「侵略者」と呼ばれて実現しなかった王道楽土の夢を、違う形で叶えてくれることに他ならなかった。

 こうして、私の献上の対象は、溥儀から新中国に変わった。

 本稿は私「献」が八十を過ぎて中国で暮らす中での所感集である。

 

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唐土の松山  

 福建省で行われた、第16回世界華人囲碁大会に参加したついでに、この地の霞浦県赤岸鎮に行って来た。もう少し正確に言うと、空海が遣唐使として上陸したこの地に是非一度行きたいとかねて思っていたので、喜んでこの地で開催される大会のご招待を受けた次第。

 開催地福州市から「動車」(中国の新幹線)で約一時間、プラットホームが二つしかないこの福建省の小駅は、「動車」が停まらなかったら何もない田舎町だ。

 駅前からタクシーで市内の木賃宿へ、そのまま記念堂へ向かったのだが、それはどう見ても田舎町の中心地から5キロはない、更に田舎の畑の一角にあった。

 ここは、海岸から数キロある。実際の上陸地点は分からないが、海岸に向かって三キロほど車を走らせてみた。

 ここは少し入江になっていて、道沿いには廃船となった小船、使い捨てられた建設用車などが見える。海岸には野球場ほどの蘆原があった。

 鄙びた漁村の小高い丘の上には、「妈祖」と呼ばれる土着信仰の廟があった。由来書によると1730年の歴史があるという。

 そしてここの地名が、なんと「松山」なのだ。廟の前の海辺に「南無阿弥陀仏」の石碑があるが、ここが実際の上陸地点を想定して記念したものだと思う。

「松山」の地名が、1300年の時の流れを現代に引き寄せ、お大師様の困難を身近に思わせてくれた。

2014年10月10日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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何が変わった?

久し振りで中国を旅してきた。西安、敦煌、陽関、呼和浩特、北京、撫順、瀋陽と回って先日帰国した。今回驚いたのは、中国人が以前に増して皆親切になっていたことだ。

一番の驚きは、空港の搭乗手続きで並んでいたら、若い女性が順番を譲ってくれたことだ。どこへ行っても長蛇の列は相変わらずだが、行列の緊張感があまりない。温度空間が広がって前後左右にゆとりが有る。

一方テレビでは、相変わらず抗日番組をどこかのチャンネルで24時間流している。

敦煌で乗ったタクシーの運転手が、「中国人は皆日本が好きではありません」と、ドキッとすることをケロッと言う。だからと言って中国人の優しさに変化はない。

良くも悪くも、普通の隣人として希薄な関係が定着しつつあるのではないか。

そんなことを考えながら、朝鏡に向かっていて、はっと気が付いた。

そこには、見るからによぼよぼ感一杯の老人が居た。中国が変わったのではない。こちらが変わったのだ。まさに「朝日容顰を看れば、生涯鏡中に在り」。

元々中国人は老人に親切だ。日中関係は私の思惑と関係なく、悠久の大河の中にある。

2015年8月24日 愛媛新聞へんろ道掲載

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八十の手習い

瀋陽市にある中国の東北大学は、1923年に創立された、中国でも有数の総合大学である。

この度ここの漢語進修班に、一年の語学留学が許された。本来なら年令制限があるのだが「活到老、学到老」(生涯学習)の見地から特に許された。

入学申請書に添える身体検査表も、幸い血圧、血糖、心臓、全て異常無。

記憶力は減退しているが、それはこれまで80年培って来た忍耐力で補える。

費用は、学費が一年1万5000元。寮費が一日30元。日本円に換算すると、ざっと計算して、学費30万円。寮費年20万円である。

食費が、やはり年20万円くらいだろうか。勿論航空機運賃などそれ以外にも要るが、雑費交際費全てを含め年150万円位で十分に中国旅行も楽しめる。これは私の年金の範囲内だ。

授業は午前中だけだから、午後は近くの日本語学校で、日本語を教えさせて貰えば、小遣い以上になる。学生ビザで労働は出来ないから、ボランティアの謝礼程度だが。

中国語では「学無止境」(学びに果て無し)という。高校一年中退の私は、やっと学びの庭に立つことができた。八十の手習い開始だ。

 

●後日談。その後聴講生ということで、学費免除の特典を受けた。

 

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大巧若拙

松山市南高井の正友寺の注連石に、三輪田米山の筆になる「大巧若拙」という文字がある。

老子の言葉「大直若屈、大巧若拙、大弁若訥」に由来する。真直ぐに生きる者は屈する、真に巧みな者は拙く見える、能弁は訥弁の如しというような意味だろうか。

この老子の教えが私の中国生活で巧まざる処世術になっている。

歴史認識、尖閣、靖国は日中間では避けて通れない問題である。私も馬齢を重ねてこの種の問題には一家言を持っているが「大直若屈」で、ことさらにそれを振り回すようなことはしていない。しかしそれでも、時にそれが話題になれば、持論を述べさせて貰っている。

例えば靖国問題で「遠くない将来、日中の指導者が、双方の英霊烈士に表敬の参拝をしているでしょう」というのはかなり際どいが、私の下手な中国で訥々と語ると、真剣に聞いて貰える。おまけに私は少し吃音がある。まさに「大弁訥弁」。

話題が難しくなると、私の中国語では理解出来ないときがある。そんな時は「すみません。私は難しい中国語は分からない」と言う。

「先生惚けるのが巧いですね」と笑って許して貰えるのは、亀の功か「大巧若拙」か。

決して惚けている訳ではない。

 

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偽善者を生きる

父の日は、中国でも祝う。今日こちらの「群」と呼ばれる、仲間内の老人会みたいな催しにお招きを受けた。

「貴方の生き方は、私達の模範です。父親代表として挨拶して下さい」と、お尻がこそばくなるようなことを言われたが、これも最高年齢者への気配りかと、厚かましく引き受けた。

昔、私の父がよく言っていた「天は二物を奪わず」という言葉を引き合いに出して、「若さの体力は失ったが、耐える心は強くなった」と少し格好良いことを言わせて貰った。

異国で異国の人と仲良く暮らすということは、耐えることである。いや、耐えなくてすむように、摩擦を少なく生きることである。

ここで私が接する多くの中国人は、あまり日本人を知らない。特に子供達は、私しか知らない。夢を持ってこれから日本に行くため日本語を勉強している子供達に、行く前から夢を奪うわけにはいかないではないか。

よって私は、一挙手一投足彼等の目を意識して、思い切り偽善者として生きている。

善人なおもて往生す。況や悪人においておや。(歎異抄)。私は、善人にも悪人にもなれない偽善者だが、南無阿弥陀仏。

2018年6月24日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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瀋陽方丈記

中国の新学期は、九月である。この度瀋陽市東北大学の「漢語研修班」に入学を許されて、韓国、ロシア、ベトナム、シンガポールの孫みたいな若者達と机を並べさせて貰えることになった。年令の関係で、正規の留学ビザは下りない。学校関係者のご厚意で聴講生である。

聴講生だから、卒業証書みたいな物は無いが、その代り学費無料という、破格の厚遇。

授業は月水金の午前中だけ。午後は、学校構内の日本語教育機関で、日本語を教えさせて貰っている。これまでのアパートは広くて安いのだが、郊外からバス通学がきついので、学校近くの1LDKの小さなアパートに先週引っ越した。

ここは、日本の新聞もテレビも無い。金を出せばあるが、高くて手が出ない。無ければ無いで、無いのも良いものだ。個人と個人という、一番小さいミニコミの世界で生きている。ここには、靖国も尖閣も無い。

かつてガリレオは、あの粗末な望遠鏡で、宇宙を観察し「それでも地球は回っている」と言った。

私もぼんくら頭で葦の髄から天を覗きながら一言。「それでも庶民は平和を愛している」と。ここには、その確かな手応えがある。

 

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渡り鳥雑感

この度の中国暮らしも、早い物で一年が過ぎた。最近は道を歩いていても、よく中国人に道を尋ねられる。こちらが尋ねたいくらいだが、いかにも物知りそうな年寄と敬意をもって尋ねてくれているのだから、私も誠実に少し耳に手をやって考える振りをしてから首を横に振る。実はよく聞こえているのだが、正直言葉が聞き取れないこともあるのだ。

話は全然変わるが、私は鳥の鳴き声には和音が無いと思っている。同じ生活圏の中で、鳴き声信号が、和音で埋没したらまずくはないか。

人類の言葉の違いも、「それぞれの国の異なる文化を背景に発生した」と考えるのが素直かもしれないが、「テリトリーを守る一面から生まれた違い」も無いだろうか。

いくら中国語をしゃべっても、日本人であることには間違いない。しかしいくら日本人であっても、中国語を話す限り、この多民族国家では、寛容である。事実中国語は、多数の方言は有っても、この56の民族を繋ぐ大きな横糸になっている。

ここで中国人に間違われるのは、むしろ喜ぶべきだろう。

言葉は、文化を守る砦でもあるが、その間を吹き抜ける風でもある。

老いた渡り鳥は、その風に乗って、今日も飛び回る。いつの日いずこの国で羽を休めることになるのやら。

2016年12月6日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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異国風情

今私が瀋陽で住んでいるアパートは、「三好街」(電子機器、楽器などの新興繁華街)と「五里河街」(昔からの生活街)の中間にある。

三好街には「佳能」(キャノン)「YAMAHA」等日本製品が、各国の最新製品の中で氾濫していると言っても過言ではない。

一方五里河街は中心地に近いのだが、何故か取り残されたように、良く言えば生活の香りが漂う、悪く言えば昔ながらの薄汚さも残った庶民的な街である。

この庶民的な街の方に、日本語が氾濫していると言えば少し大袈裟だが、注意深く見れば、至る所に日本語が見られる。元はと言えば日本語は漢字だから、当たり前かも知れないが、「異国風情」に(いこくふぜい)とふりがながつけられていると、これはもう立派な日本語だ。「千恵子足道」(足マッサージ店)、「カレーの家」、「吉野家」「寿司」「伝統の味を堅持する親子丼」等々。極め付きは果物屋の店先の蜜柑に「愛媛」と書いてあった。勿論中国産。

食堂のおばちゃんが私に「ピアノを弾くのか?」と聞く。先日近くの楽器店でメトロノームを買ったのが、もう伝わっている。「尺八を吹く」と言ったら今度聴かせて欲しいと言う。

ここでは、私の存在そのものが異国風情かもしれない。

2017年3月20日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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 蓋州の町で

 所用で蓋州(遼東半島の付け根にある小さな沿海都市)に行ってきた。

 少し時間があったので、旧市街を案内してもらった。ここは明時代の古城があり鼓楼が保存されている。

 多くの旧城内が撤去された中で、ここはまだ昔の面影は僅かに残っていた。

 路上市場の雑踏は、これも昔のまま

 70年前の撫順城内を思い出していて、ふと気が付いたのだが、「臭い」だ。

 あの全ての生活臭を醸成した、独特の臭いが無い。つい最近の瀋陽の路地裏でも有った中国各地にあった臭いだ。これはゴミ処理行政が末端まで機能していることを意味する。

 小さな仏教のお寺があったので、入ってみた。

 中年のご婦人が本堂で腹這いになっている。変わった形でお祈りをしているなと思ったら、仏壇の下を拭いているのだ。よく見たら境内には塵一つない。掃除と言うものは、綺麗にすればするほど、小さな汚れが気になるものだ。逆にちょっと油断したらすぐ手がつけられなくなる。仏壇の下の埃が気になるところまで、生活の中の清潔感を向上している。

 

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中国恐るべし

 いつも利用する若夫婦二人でやっている、麺専門の店がある。30席ほどのこぢんまりした客席と厨房。動線設計が悪いのか厨房が狭いのか、外に置かれた冷蔵庫と厨房の間を、ご主人がこまめに動いている。

 髪を無造作に後ろに束ね、少し細めの体に切れ長な眼差し、25才前後の女将さん。何がそんなに楽しいのか、いつもニコニコ笑っている。

それが自然で、スキップを踏むような足取りで、よく拭き込まれた床の店内を飛び回っている。

 もし「幸福」を絵にすることが出来るなら、これがそのままその風景ではないだろうか。

 これが本来の中国人の姿なのだ。以前初めて解放後の中国に来たとき、国営書店で、本を投げ渡されてカルチャーショックを受けたが、中国はどんどん変わっている。なにより、人が変わっている。

 社会体制という入れ物が変わったから、人が変わったのか、人が入れ物を変えつつあるのか。

 それは、相互に作用しているのだろう。

 かつて日本が不幸のどん底から這い上がったように、中国がこの有り余る「幸せ」の輸出国になる日も近い。

強力なライバルの出現を喜ぶべきか、恐れるべきか。

 

2018年5月14日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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中国の敬老

最近「リスペクト」という言葉をよく耳にする。調べてみたら、「敬われる」というような意味だった。

敬老の日の案内があった。この日に合わせて帰国したわけではないが、折角の年一回のリスペクトをお受けしに行ってみたい。

中国に「敬老の日」はあるのか。一応9月9日が「敬老の日」になっているようだが、国民的な祝日ではない。特に地域の行事も知らない。しかし父の日にお招きを受けたことはある。80才過ぎても、父親としてリスペクトされるのだ。

週末には、近所の曾孫みたいな年齢の子供達が遊びに来てくれる。碁や尺八を教えながら遊ぶのだが、「おじいちゃん、お腹すいた。何かない?」と勝手に冷蔵庫をかき回してくれる。「どんな躾を受けているのだ」と、思わず眉を顰める。それが、囲碁が終わると、黙っていてもさっと私の背に回り、肩を揉んでくれると、さっきまで吊り上がっていた眼尻が下がる。

毎朝早朝、アパートの近くの広場で100人程のお年寄りが、ご近所の若い婦人会の人達と、リズム体操のようなものを楽しんでいる。

中国もご多聞に漏れず高齢化社会である。それも一人っ子政策と重なって深刻である。

しかし、儒教伝来の敬老精神は、長い歴史の中で、紆余曲折はあっても、特に敬老の日はなくても、年寄りは日常生活の中で自然にリスペクトされて健在である。

 

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耐える眼差し

 東北大漢語研修中級班A組の同級生の中に、スーダン、ギニア、イエメンから来た、皮膚の色が黒い人も居る。

私達の会話の授業は、各国の風俗習慣が話題になることもある。スーダンのS君の故郷は一夫多妻だが、敬虔なイスラム教徒の、彼の口からそれが語られると、ただ猟奇の目だけで見るのが正しくないことを知る。背景に厳しい自然と複雑な社会事情があるのだ。

 ある日、町で偶然アフリカからの三人組と会い、昼食に誘った。

 「清真」と青い文字の看板がある店に入った、「清真」は回教徒を意味し、イスラムの宗教的タブーである豚肉が入っていない。

 それぞれ注文したのだが、私のはすぐ来たが、彼ら三人のがなかなか出て来ない。やっと出てきたが、彼らの箸が重い。 

「どうしたの?」と聞いたら、「メニューの写真と違う」という。内心「なんだそれくらい」と思った私は取り合わなかった。

 勘定が終わって、店を出ようときだった。

 主人が私に「私達は回教徒だが、同じ回教徒でも違う人達がいる」と言った。

 その時私は全てが分かった。よほど酷い物を食わされたのだろう。あの彼らの必死に耐える眼差しは、料理へではない。差別への悲しみに耐えていたのだ。

 それでも、彼らは私の好意に報いる為、黙って必死に食べ終えたのだ。

 

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「大中国」

今年の「春聯」(日本の紅白歌合戦)でのコントが炎上していた。中国人女性が顔に炭を塗り黒人女性に扮し大きなお尻を付けコミカルに演じていたのが、「黒人差別」だと。

面白いと思ったのは、「差別でない」という人の反対意見だ。

 「没関係、中国人は気にしていない」と言う。

  反対者に、その認識自体が差別だという自覚がない。

 中国で暮らしていて、日常生活で何か問題が起こると、相手に「没関係」と言われて戸惑う。こちらが問題にしているのに「お構いなく、私は気にしていませんから」と言う。

 これも逆だろう。差別された側が、「没関係」と、相手を赦すなら分かる。尊大な中国人は、そもそも目線が逆なのだ。

 関連して思うのは日本の一部の人に「支那」は差別用語でないと執拗に主張する人がいることだ。彼の学識によると差別とは「没関係」とのこと。

差別は知識が決める物ではない。まして差別した側が、差別された側の気持ちを「没関係」と踏みにじって決めることではない。差別は相対的な物だ。差別する者は絶対に尊敬されない。率直に言う。中国人の差別意識はかなり強い。中国人を尊大だと思うのは、「小日本」の僻みだろうか。

 いまだに「小日本」という言葉を日常的に耳にすると、「大中国人」の品性を疑う。

 

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「小日本」

 多くの日本人は、これを差別用語だとは知らない。若者は、もしこれを差別用語だと知っても、「その通り」と歯牙にもかけないではないだろうか。

 昔、日本人が中国のことを「支那」と呼んだ時代の酷い差別用語は、既に死語になっているからここには書かない。

 中国が眼中に無い彼らにとって、中国に対する差別用語すら無い。これは却って恐ろしいことだ。「中国」または「中国人」という言い方そのものが軽蔑の意を含んでいるのだ。少なくもと尊敬語ではない。

 彼等の概念の中では、独裁中国=暗黒横暴であり、中国人=不潔、嘘つき、マナー知らず、なのである。

 中華思想を「自己中」(自己中心主義)と同義語に使う彼らから見たら、「一帯一路」もその延長線上にあるとしか見えないのではないだろうか。

 実は私も、尖閣問題に対する中国共産党の見解、即ち「尖閣は一帯一路の終着点」を見る限り、その危惧を深くする。

 「中国人お断り」と言った高級料理店が「差別」と物議を醸していたが、実はこの店は、これまで何度も中国人のドタキャンに悩まされていた。この店は、一般に富裕層が利用する。

 金を持ったら傲慢になる。力を持ったら横暴になる。これが富強か?

 「小日本人」それを嫌う。

 

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 余生を生きる

所用で瀋陽に行ってきた。ここは18年前看護婦学校で日本語の教師をさせて貰ったことがある。「もう無理だろうな」と思っていたら、思いがけずも「日本に研修生を派遣している会社でご経験を生かしてもらえませんか」と声を掛けて下さる方が居た。

 流石にこの年では、中国政府の正式な就業許可は貰えない。だから給料は無理だが、それでも家具付きの住居の提供など、私がここで暮らしていくのに困らない環境整備はして下さるとのこと。何よりも求められる熱意が嬉しい。喜んで引き受けた。

 私が求めた我が儘は、一日3時間週4日以内の授業ということ。余った時間は、周辺の農村を自転車でぶらぶらしたり、囲碁学校で子供達と碁を打ったりして過ごすつもりだ。

 生徒の子供の中には、日本では強豪?を自負している私より強い子も居る。それでも終わったら「謝謝老師」(先生有難うございました)と可愛いことを言ってくれる。

 70才以上は市内バスも無料。パスポートで証明するまでもなく顔パス。乗り降りには手を貸して下さる人も居る。自分ではしっかりしているつもりでも、年は争えない。

 「良い年をして何を今更中国暮らし」と思われるかもしれないが、軽い緊張の中をひたむきに生きて、くたばった所で静かに果てる。求めた道だ。余生を生きる者の夢でもある

 2015年10月12日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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望郷中国東北路

 遠く真っすぐな道が、私の心を突き刺す

 ポプラ並木、濁り雪、けむり空

 この道の果ては我が青山か

 垂乳根の母もここに眠る

 いつか鎮めん心の骨を

 瀋陽市桃仙空港から市内鉄西区への道は、途中昔の飛行場跡を通る。騰飛街、滑翔路などそれを思わせる地名は残っているが、高層建築が立ち並ぶ風景に、昔の面影はない。

 私達家族は、技術抑留者と共に敗戦後三年中国に残ったのだが、国共内乱の中、国民党の軍用機でここから葫蘆島まで脱出した。

 気丈な母が一度だけ、私の膝で泣き崩れたことがある。「貴方が私の遺骨を抱いて帰る」と。結核を患っていた母は30才で夭折した。白木の箱は私の胸にあった。二人の妹と共に。

 今またこの地に戻って思う。「日中友好」を大上段に振りかぶる気は更々無い。第一私は人格者でもなければ、学識経験者でもない。

 ただかつてこの地で暮らした多くの日本人がそうであっように、私も誠実な一日本人を全うしたい。それ位の心意気は許されるだろう。

 

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瀋陽生活

 引っ越し荷物も解き、瀋陽での日本語教師の生活が始まった。

 軽い緊張は楽しむ位の気持ちでいたのだが、まず公共バスでラッシュの洗礼を受けた。

 授業は月水金隔日午後一時半から4時半まで。出勤は楽なのだが、帰りが丁度ラッシュアワーになる。行列から弾き飛ばされて、やっと乗ったらドアがぎりぎりで閉まった。

 ここでは、いくら中国人が優しくても優しさの発揮する場所が無い。30分もみくちゃにされて、やっと我が家にたどり着いた。

 授業は男女合わせて17人。全員二十歳前後と孫みたいに可愛い。私の授業は教材らしい教材も無い。ひたすらおしゃべりを通して会話の練習をする。「何でも聞いて下さい」と言ったら「先生は何故中国に来たのですか?」と鋭い質問がきた。

 私の名前「献」の由来、即ち父が元満州国官吏で、満州皇帝溥儀に我が子を「献上」すると言う意味でつけられたから始まって、私が中国を第二の故郷と思っている気持ちを語ったら、その孫みたいな子供から「先生の中日友好に身を持って貢献される生き方を敬服します」と過分なお褒めを頂いた。中国語でだが。

 2015年10月24日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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年の功

少年期のトラウマだろうか、ここ中国で暮らすと70年前の記憶が今でも涙が止まらないほど鮮烈である。一方来て一ヵ月にならないのに、手袋を二つ失くした。

早く言えばボケたのだが、年を取るということはそれ程悪い事ばかりではない。

老舎の小説「四世同堂」にこんな一節があった。主人公の祁老人(80才)が沈黙しているとそれだけで思慮深く見えるということ。実は彼は事態が理解出来ないだけなのだが。

沈黙は金也。私も余計なことは言わない。実は、頭が回転しなくて言えないのだが。

授業をしていても、漢字の度忘れがひどい。文法も少し難しくなると、上手く説明できないことが多い。そんな時は「これは私の宿題」と言って先へ進む。

生徒「先生、宿題が多いですが大丈夫ですか?」私「大丈夫、私はすぐ忘れるから」。

すると「先生は惚けるのが上手い」と言ってどっと笑ってくれる。箸が転んでも可笑しい年頃の娘さん達は、寛大だ。

中国語に少し面白い言葉がある。「馬老了滑」。直訳すると年老いた馬は滑る。この「滑」と狡猾の「猾」が同じ発音。私も老馬にあやかって狡猾老獪である。

 

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 若者の夢

 教科書に「夢」という一文があった。ここでいう夢は生理的な夢だが、少し話題を変えて、生徒達に将来の夢を語って貰った。

 「日本で、お金を儲けて良い自動車を買って日本を一周したい」

 「日本で儲けたお金で、故郷に喫茶店を開きたい」など、微笑ましい夢の外に「お金持ちになって、美味しい物を食べて、良い服を着て、立派な家に住んで、ねえ楽しいでしょう」と、正直と言えば正直だが、およそ夢の無いことを言う子も居る。

 私の夢のついでに、「こうして皆と勉強をすること自体が楽しい。勉強は楽しいよね」と言ったら、「勉強が楽しいはずがない」と一斉にブーイングを貰った。

 中国の教育は徹底した詰め込み教育である。そしてこの子達はある意味その詰め込み教育の敗北者なのだ。だから日本に行って一旗揚げることが夢になっている。

 私の孫娘と同じ年の娘さんが「良い人と結婚したい」と言ったのには、感動した。

 そこでテレサテンの「時の流れに身を任せ」の中の一節「平凡だけど…♪」と鼻歌で歌ったら「あっ、その歌知っている」と全部歌ってくれた。 

 中国の若者は、挫折を逞しく乗り越えて屈託がない。

 

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 21世紀の若者

 瀋陽は旧奉天。「坂の上の雲」の奉天大会戦の舞台になった遼陽は、ここから西に100キロ足らず。先日その近くにある、「新時代高校という私立校に行ってきた。この田舎に日本語を勉強している子供達が60人も居る。

 少し早いがそこのクリスマスパーティーに招かれたのだ。尻取りゲームや鬼ごっこや歌。私は尺八を披露させて貰った。

 子供達は全員「20後」と呼ばれる21世紀生まれ。

 朝5時20分起床。夜9時就床までぎっちり課目表は埋まっている。土日も無し。休みは月に僅5日。環境も厳しい。例えば、トイレは零下20度の校庭の隅のバラックにあるニーハオトイレ。排便を受ける長い溝に仕切りがあるだけ。ドアは無い。

 この徹底したスパルタ教育と、詰め込み教育の是非はともかく、「量的変換が質的変換をもたらす」という唯物弁証法の結果が大量に送り出されている。「何か質問はありませんか?」と聞いたら、「二戦(侵略戦争)についてどう思いますか?」という歴史認識逆質問だった。鬼ごっこで囃す「鬼子(日本兵)が来た♪」は抗日戦争映画の中の童歌だ。

長い友好の歴史を壊した傷痕は、まだまだ深い。ピースマークの屈託のない笑顔で記念撮影に納まる、21世紀の若者達に期待しよう。

 

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書くということ

 私は難発型の吃音で「た」と「か」が言葉の頭にきたときだけ言えない。普段は他人には、気付かれ難いが母を亡くした少年期のある日突然言葉が出なくなった。やっとここまで治ったのだ。

 「よくそれで日本語教授が務まるな」と、思われるかもしれないが、教壇でしゃべる日本語は特別で、舞台の台詞のように、歌うように抑揚をつけたら言える。

 中国語は声調というものがあって、言葉自体に抑揚があるから、日本語よりはましだ。

 だからだろうか、書くと饒舌になる。ともすれば攻撃的になる。例の巨大掲示板では、彼らの感性豊かな表現に付いていけず彼らを「名無しのネットゴキブリ」と呼んで憚らないないものだから、アクセス禁止の処分を受けてしまった。「いいね!」の日本で普通に使うSNSも中国では使えない。

 それで自分のしがないホームページ「けんさん.jp」(漢字ドメイン登録している)を使っている。自分のHPでは「着ては貰えぬセータを寒さ堪えて編んでます」の心境で、書きたいことを書きたいままに書いて憎まれ口を叩いている。誰も読んではくれないが。

 ここは少し違う。やはり書く以上は読んで欲しい。誰かが読んでくれているのを信じて、少し可愛らしく、「憎さ堪えて書いてます♪」

 2018年2月28日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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 見果てぬ夢

 些か自慢話になるが、瀋陽から北京(800キロ)を自転車で走ったのは、古稀を記念して10年前だった。以来車は乗らないから、日本列島縦断(波照間~宗谷岬3300キロ)を走ったのが、73才の誕生日。遣唐使の道を辿る旅(寧波~西安1800キロ)が74才の時。東北三省自転車巡礼(漠河~葫蘆島2000キロ)が76才。

 今でも東京位なら、それほど構えない。

 実は若い時は、(若いと言っても定年になった58才の時だが)四国一周を走って、恥かしながら二十キロも走ったらお尻の皮が剥げ、四苦八苦した。今は要領がよくなって、遅いが疲れない。

 私もやっと80才になった。その後10年、益々老獪になって、一日中でも走れる。

 実際に走っている。このペースなら世界一周も行けそうな気になっている。とは言えテントを担いで行く気はない。あくまでも日常生活の延長で冒険は好まない。

 さて、パートナー探しだが、10年前中国で瀋陽北京を一緒に走った友人が、その後もずっとお付き合いしているのだが、病気で倒れた。また近く中国に居を構え、暮らしの中で新しいパートナー探しから始める。

 中国大陸は、私にとってはある意味「庭」だ。ここに「傘寿の夢」を咲かせよう。

 2015年9月20日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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 夢に夢中

暖かくなるともたげるのが、以前本欄でも「見果てぬ夢」と題して紹介させて貰った自転車で世界一周をする夢である。まだ実現していないから今でも「夢の中」なのだが。

 思えば古希を記念して瀋陽から北京800キロを行ったときは、「これが実現したらいつ死んでもいい」と思ったほど、自分にとっては壮挙だった。しかし、その後「日本縦断3300キロ」「遣唐使の道、寧波西安2400キロ」「東北巡礼、関東軍と開拓団慰霊の旅2500キロ」など次々に「夢」を実現してみると、とてもいつ死んでもよい気にはなれない。

 夢は実現したら、次の夢の肥やしにすぎない。

 夢を見ている間に好転した状況は、スマホの発達とATMの普及である。

 これに乗って、少しやってみたいけしからん夢は、「乞食」である。盛り場で尺八を吹きながら、托鉢。SNSも活用しながら、今様吟遊詩人である。

 時の流れは、確かに私の体力を奪った。しかし同時に、人様の情けにすがる順応力は進んだ。

 これが一番大事かもしれない。

 ひたすら東に朝日に向かって走る。ある日夕日を背に日本に戻ってきたとき、次はどんな夢を見ているだろう。

 2018年3月18日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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中国囲碁事情

30年前「日中スーパー」と銘打って日中囲碁対抗戦が行われた。当時の中国はまだ文革の影響冷めやらず、囲碁もとても日本に太刀打ち出来るような状態ではなく、始めは対抗戦というより指導碁に近かった。

それが、中国経済の発展に伴い今やその地位が完全に逆転した。世界タイトル戦の殆どは、タイトルを始め上位の成績は中国と韓国によって占められている。

そんな中で中国囲碁界は、今でもかつての師日本の囲碁を「反哺」(恩返し)と言って大切にしてくれている。私もそれにあやかり「瀋陽樹国囲棋培訓中心」というところの名誉コーチという過分の肩書きを頂き、今回そこの招待状で来瀋した。ここは分校を含めると5千人の子供達で沸き返っている。

この学校の名誉校長に宇宙流で有名な武宮正樹九段になって貰っている。

腹に一物有る私は、ある殺し文句を準備して先生に直接電話し単刀直入にお願いした。

武宮先生「何故私を中国に招待して下さるのですか?」。私「先生は中国の子供に人気が有るのです」。この天真爛漫子供のように純粋な大先生は、簡単に篭絡されて下さった。

囲碁は別名「手談」とも言う。白と黒の烏鷺の世界に言葉の壁は無い。子供が大好きな武宮先生と、武宮先生が大好きな中国の子供達が直接盤上で話をしている。

 

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縁の楽器

今私は瀋陽のアパートの一室で、余暇に近所の子供達に囲碁を教えている。

好奇心の塊のような子供達は、私の部屋に入るなり、目ざとく机の横の尺八を見つける。

その中の一人八才の男の子「大牛君」(体が大きいのでつけられた綽名)は、とくに関心が深く、大きな体を折り曲げるようにして、「是非教えて下さい」と言う。彼は横笛を習っている。

 中国では、琴棋書画と言って音楽も碁も書画と同列の芸術として、習い事の最右翼の人気があるのだ。

 そして、人気は爆発的なブームの中で起こる。それは日本旅行の「爆買」を見て頂いたらご想像がつくと思う。

 私の尺八の師、大萩康喜氏は松山の全国でも数少ない若手の製管師だが、また優れた演奏家でもある。なにより若いから進取の気性にも富んでいる。 是非氏に一肌脱いで貰って、当地で最高の邦楽をご披露して貰いたい。そしてブームに火を点けて貰いたい。

古くシルクロードを伝わって来たこの楽器が、中国で途絶えて久しい。こうして里帰り出来たらそれこそ「縁」だと思う。

瀋陽はまた小澤征爾の出生地でもあり、日本と音楽交流の素地はある。音楽に国境は無い。

 

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瀋陽駄句日記

 _白菜の枕を並べニーハオマ_

 白菜は当地の貴重な保存食である。この時期、アパートの空き地で、保存の為乾燥されている物をよく見る。

 _床暖に騙されゴキブリ目を覚まし_

 11月1日から床暖が入る。ここのゴキブリにとって啓蟄は、陽暦の11月1日である。

 _果てしなくただ空青く月白し_

 日本列島を幾つも包み込む広域大陸性高気圧が作る、四方の地平線の果てまで広がる青いドーム。その中に浮かぶ白い月。季語ではなんと言うのだろう。

 _重ね着のまたまた一つ重ねけり_

 一年の寒暖の差が大きい大陸性気候は、当然一日の中でも寒暖の差が激しい。それに合わせて、土地の人でも衣服の脱ぎ着は頻繁である。

 _寝て食べて出して終日冬籠もり_

 寒くなると、どうしても出不精になりがちである。最近はインターネットがあるので、ネット囲碁などで退屈しない。

 _買いだめの即席餃子をチンで食べ_

 冷凍餃子は意外に美味しい。

 これだけ気候が違うと、季語と季節感は必ずしも一致しないが、季節と向き合う感覚は大切に生きたい。

 2017年11月18日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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一句成仏

 どちらかというと、殺伐とした中国東北地方の風物は、俳句と無縁の世界だと思っていた。しかしある日、中庭に保存用の白菜が干されて居るのを見て、「白菜の枕を並べニーハオマ」と呟いたら、これはどうも俳句もどきなのだ。

 ご多分に漏れず、私も最近は難しい言葉は出てこない。季語を軽視しているのではないが、元々詳しくないせいもあり、ここに適当な季語が思い浮かばない。

 外の宇宙も無限なら、内なる自己もまた限りが無い。その内なる自分と向かい合うのが季節感であり、季語はそこに介在する物だと思っている。ならば季語も又、その地に応じて無限であっていいはずだ。

 さて講釈はともかく、俳句もどきに味をしめて自分のHP(けんさん)に「瀋陽駄句日記」なる物を一日一句で書き始めてみた。左の脳が衰えて、記憶力が減退した分右の脳のスペースが出来たのか、独り言がそのまま五七五になり、滑り出しは好調である。

 一日一句。明日はまた明日の感性が生まれるのを期待しながら毎日書いてみよう。

 一日一句が、週一句になり、月一句になり・・・。その内本当に一句成仏。南無合掌。

 2017年12月10日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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駄句千句

「一句成仏」と題して、私のホームページ「けんさん」(www.ken-san.jp)に、駄句日記を付け始めて、早いもので半年が過ぎた。お陰様で、まだ成仏せずに続いている。

 私の俳句は日記代わりだから、一日一句しか作らない。正直言うと「作れない」と言う方が正しいかもしれないが、例え作れても、一日は一日しか生きることがでない。

 毎日毎日は平凡な繰り返しだが、その平凡と真摯に向かい合うことで、新鮮さを求めたい。

 プロは、一句を求めて千句を捨てるそうだが、私には、例え駄句でも捨てる句は一句もない。皆生きた記録だから。

 恥ずかしながら、たった一句の駄句に苦吟したこともある。正直下手糞だなと思うが、ひたむきに生きたことが愛おしい。

 最近物忘れをしなくなった。老眼鏡や携帯電話を探し回ることがない。毎年ひどいときは、三つも無くした手袋を、今年は一つも無くさなかった。

 俳句に変な実用性を求めることには、異論もあろうが、これは右の脳にいつもスイッチが入っている証拠だ。

 「空梅雨や 唐土遍路の 歩く道」

 今日現在220番目の駄句である。東京オリンピックまで頑張ろう。駄句千句を目指して。

 

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恩讐を越えて

 中国東北地方、昔日本人が満州と呼んだところの南の一角に撫順市がある。

 昔から石炭が採れ、当時南満州鉄道株式会社(略称満鉄)が経営する東洋一の巨大な露天掘りで有名だった。今は石炭の採掘量は減ったが、液化石油など今なお中国有数の工業都市である。

 ここには、侵略戦争の負のイメージを代表する「平頂山惨案記念館」と「撫順戦犯管理所跡」がある。

 しかし一方撫順市は、旧撫順駅や学校、炭鉱クラブなどの歴史的施設とともに、かつて日本人が住んだ住宅の保存もしている。

 その瀟洒な洋館が立ち並ぶ一角で、近所の年配の男性がボランティアで草むしりをしていた。

 「私は昔撫順に住んでいた日本人で、父は満州国の官吏でした」と言ったのに対し、男性は慰めるように「日本人にも良い人も居たよ」と言ってくれた。

 私はここに「庶民のぬくもりがある歴史記念館」を作るのが夢だ。中国に住んでいた100万を越える日本人の皆が皆、毎日毎日悪いことをしていたわけではない。多くは普通の庶民として暮らしていた。それも長い日中友好の歴史の一部だ。それを風化させたくないだけだ。甘い感傷で、侵略を美化する気持ちは毛頭無い。

 2014年11月7日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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 泣き虫人生

 ここ中国東北地方遼寧省は、長白山系に属し、冬季の吹き下しが厳しい。そしてその冬が長い。

 1946年3月6日~9日にかけて、撫順の旧日本人小学校の防空壕から、2000体を越える凍った遺体が運び出された。それは厳寒の中で、春を待てずに裸で遺棄された人達である。

 そこには、北満北鮮から敗戦後避難して来た人達が大勢収容されていた。筵から凍った手足を突き出したまま、40台の馬車に分散された遺体は、長い列を作った。そして近郊の渾河河川敷に運ばれ、荼毘に付されて、遺灰は渾河に流された。

 私の母は同年2月11日に病死、続いて一才になったばかりの妹が後を追った。幸い私達は避難民でなかったので、まだ恵まれていて、火葬場で焼かれた。それでも火葬場には、棺桶が山のように積まれ、子供は二人並べて焼かれた。

 先日授業で、大失敗をしてしまった。教材の中身その物は、出世して正月も帰郷できない息子に母親が餃子を作り、12時間列車に乗って来て食べさせるという、それだけのお話。予習をしていなかったので、これを見るなり、思わず涙が出た。そして声を上げて泣いてしまったのだ。

 ここで母親の話は止めて欲しい。気障な言葉を許して貰えるなら、私は泣く為に、老いの人生を異国で送っている。

 春を待てずに、この先何回涙を流すやら。

 2016年12月31日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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戦争よ、去れ!

 先日、日露戦役について調べたいことがあり、遼陽の博物館に行った。開館待ちのひと時、6才の坊やと少しお喋りをした。

 「おじさん日本人?僕知っているよ」と、無邪気に語り始めたのは、八路軍にやられる日本軍鬼子の話だった。抗日はこうして、三つ子の魂まで刷り込まれている。然しそれが即反日にならないのは、抗日が既に歴史になっているからだ。

 日露戦争は、私の生まれる30年前の神代の話。この坊やにとって、抗日戦争は生まれる80年前に始まった話。

 80年は、この坊やにとって生涯の13倍の時間。私の生涯82年の13倍は、優に1000年を越える。この子の心の中では、抗日が知識とは別に、既に歴史として風化していても不思議はない。

 日本のアニメで育った世代は屈託がない。

 「僕が案内してあげる」と全館、私の手を引いてガイドをしてくれた。

 私の6才と言えば、丁度大東亜戦争が始まった年。私はこの時の大本営発表も、最後の玉音放送も覚えている。

 多くの先輩は語れない世界へ行った。

 最後の語り部として思う。戦争よ去れ。風化せよ。只一つ。「戦争で泣くのは庶民だ」この事実の教えだけ残して。

 2017年8月16日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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面従腹背

 先日、調べ物をしていて旧満州国国歌を見た。「天地内有了新満州」で始まるこの歌は今でもハミングで歌える。

 調べていて驚いたのは、この中に「無苦無憂造成我國家」という歌詞があるのだ。漢字から普通に読めば「苦しみも憂いも無い我が国家が造られた」と、読める。

 この国歌の作詞者は初代総理大臣鄭孝胥。彼は関東軍にも直言する硬骨漢だったそうだが、実はこの歌詞にはその反骨と恨みが込められているのだ。

 正しい中国語では、「建立我国家」である。「造成」は日本語では、宅地造成など普通に良い意味で使われるが、中国語では災難など望まないことが起こったとき使う言葉だ。

 もっと凄いなと思うのは、当時この歌を式典の度に歌わされた中国人は、皆この意図的な間違いを知っていたはずだ。それが誰一人として指摘していない。日本人に教えていない。

 旧満州国官吏だった父の思い出によると、後に漢奸と呼ばれた当時の中国人役人の部下達は、「今は満州国だから」と、どんな命令にも従ったという。

 一見唯々諾々と日本人に従った「漢奸」は、一皮剥いたら一癖も二癖もある硬骨漢だったのだ。

 

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撫順の万人坑

撫順は満鉄(南満州鉄道)が経営した当時東洋一を言われた大規模露天掘りを初めとして、液化石油、軽金属などで一大工業都市だった。今でも工業都市である。

そこに炭鉱労務者を酷使して死亡者を使い捨てにして埋めた所謂(万人坑)が有ると言われている。「言われている」と言ったのは、誰もそれを見た人が居ないからである。

私も1992年戦後初めて撫順に行ったとき、現地ガイドに「万人坑を見たい」とお願いしたのだが、「工事中」ということで見ることが出来なかった。

その後ほぼ毎年のように撫順には行っているが、毎度タクシーの運転手が連れて行ってくれるのは、「平頂山惨案記念館」である。

ここは確かに通称「万人坑」になっているが炭鉱関係の万人坑とは違う。何故こんなことになっているか。

例の朝日新聞の「中国の旅」本多勝一の記事の中で、伝聞で書いた炭鉱犠牲者25万人?という数字が一人歩きしている節がある。

因みに平頂山惨案記念館に、炭鉱災害とその死亡記録が掲示されているのだが、それによると1907年(開鉱)から1931年満州国建国以前まで24年間の死亡者は、10489人とある。これには、その後敗戦まで14年の数字が含まれていない。この数字自体も決して小さいとは言えないが、朝日新聞の記事との乖離が大きすぎる。

労働公園の丘に立派な犠牲者の殉難碑が建っている。これは満鉄が建てた物で、少なくとも犠牲者を坑に放り捨てるようなことはしていない。中国共産党の革命教育施設の資料から見ても、撫順の万人坑は、限りなく白に近いグレーだ。

 

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 「遼源」鉱人墓

撫順市北西郊外、吉林省遼源市にある「鉱人墓」。

ここは200体ほどの埋蔵遺体が掘り起こされ、それが屋根付きの大型体育館のような建物に整然と保存されている。

 掘り起こす前の写真があるのだが、小さなピラミット型の石造りが整然と並んでいて、これは立派なお墓だ。遺体がみな若い。説明によると、「過酷な労働で平均寿命が短かった」とあるが、出稼ぎの労務者に老人がいるはずがない。

 ここで強く印象に残ったのが、給与明細と入り口に置かれた首に縄を巻かれた男の銅像。だった。

 明細表によると給与は、32.34元と、まずまず。しかし控除が借金返済、と併せて36.58元と給与より多い。これが、首に縄をつけて晒されている、「漢奸」と呼ばれた男の暴力的搾取によるものだ。彼らは口入れ金と置屋料を、暴利で貸し付けて搾取していた。日本帝国主義の罪は、彼の存在を知りながら黙認して、利用したことだ。

 資料によると、ここの犠牲者は八万人とあった。撫順炭鉱は、規模も採炭期間も桁違いだが、死亡者は全てで一万人強だ。

 中国では、三と八は。数詞というより形容詞だ。芸術的表現には、頭に三と八が付く。

 

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公害

 瀋陽を中国語で書いたら「沈阳」(沈む太陽)である。だからだろうか、ここ中国東北を代表する人口800万中国第五の直轄都市瀋陽には太陽が無い。

 私が住む瀋陽市于洪区は、市の中心から12キロ程西にある。

 冬季は殆ど雨が降らないから、ここ一ヵ月ほど日記には全て晴れと書いてあるが、実際は曇りかどうか分からない。風の無い日は特に酷い。

私の部屋は高層アパートの16階にあるのだが、30メートルほど道を隔てた隣のビルの窓は見えるが、100メートルも隔たるビルは、霞んでいる。数百メートル離れたら全然見えない。

手元に「沈阳影像」という19世紀末から20世紀初頭の写真集がある。それには抜けるような青空が写っている。

「天蒼蒼、野茫々」(空青く、野果てしなし・・・)これはここでは、子供でも知っている東北大地の美しさを描写した詩の書き出しだ。「風吹草低、見牛羊」と続く。

青い空、母なる大地は何処へ消えた。

工業発展の代償と言うには、あまりに犠牲が大きい。これを取り戻すのは21世紀の急務だ。百年の河清は待てない。

 

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好事門を出でず

アパートの下に、いつも朝食に使う小さな食堂がある。包子と豆腐汁で7元(日本円約110円)。

すっかり顔なじみになって、黙っていても同じ物を出してくれる。暇なときは、お喋りの相手をしてくれるのだが、ある日ご主人が「さくらさくら」と、ハミングで歌いだした。思わず拍手をしたら、ソーラン節を中国語で歌った。

中国のカラオケで「北国の春」は定番である。滝廉太郎の「花」も中国人が中国の歌と勘違いするほど、よく聞く。「里の秋」もオルゴールで聞いたことがある。

2005年(抗日戦争勝利60年)のとき、私と同年配の男性が歌ってくれたのは、「海逝かば」だった。 

抗日戦争映画は今でも三日にあげずやっているが、内容が大きく変わった。当り前のことのようだが、「日本人」と言うべき所では、はっきり日本人と言っている。以前は全部「小日本」(日本への蔑称)だった。残念ながら今でも「鬼子」は日本兵の代名詞である。

日中関係はキナ臭い問題もあるが、小さなしかし一番大事な所(庶民同士の友好)では確かな手応えがある。報道は往々にして好事門を出でず。悪事千里を走る。

然し何があっても、あの戦前戦中の不幸に比べたら、小さなことだ。

2017年1月30日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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忠ならんと欲すれど

 私なりに「忠」の一字を解釈するに「中」すなわち真ん中に「心」。心は、ハートの象形。

私は一途に思う気持ちを端的に示した、このロマンチックな文字が好きだ。

 しかし皇室は敬うが、忠義を「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことと教えられた暗い歴史も知っている。だから、「君が代」を歌わないのを理由に、職員を処分した行政の首長なんかナンセンスとしか思えない。

 今私は中国に住んでいる。私のパスポートは、滞在国の首長に「日本国民として安全に暮らせること」を求めている。その代償としての義務は、該当国の法律を守り、風俗習慣を遵守することである。

 私は中国共産党に一定の敬意を払っているが、党に忠誠を誓う義務はない。だから「靖国問題」「尖閣問題」「歴史認識問題」などで、中国共産党と違う意見を、党の幹部の方々の前で述べることは自由である。しかし中国共産党は、中国憲法一条で保障された、一党独政の担い手でもある。そこのけじめだ、

 ひたむきに生きる人忠義の人を、私は尊敬する。

 国への忠誠と、庶民の本音が矛盾しないことを心から願う。

「忠ならんと欲すれば孝ならず」とならない平和な社会を。

 

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歴史の流れ

 中国のテレビで、「富強」(富国強兵)を賛美する歌を、子供に無邪気に歌わせていた。

 「豊かになって強くなる」これが今の中国の国策の中心で、民心をこれで惹きつけている。

 別の番組で、中国外交部のスポークスマンが、南海問題について「反対する国は、歴史をもっと勉強して欲しい」と言っていた。 

 仮に中国が言う「南海諸島が中国であった昔」を認めるとしよう。そのまた昔は言わない。「中国の言う昔」から中国でなくなった現在までの現実をどう理解したらいいのか。

 歴史は流れている。都合の良い所だけ切り取るのは、「両極から見て判断する」中国古来の伝統的思考法と相容れないのではないか。

強くなって武力で横車を押したら、それが覇権だ。

 私が教わった社会主義は、「富の偏在という資本主義の矛盾を解消するために生まれた」だった。しかし、今やその社会主義国家に存在する天文学的貧富の格差が、覇権への引き金になっていないか。

 日本の軍国主義は、財閥を喜ばせた。ゴルゴ13ではないが、この危機の背後で喜んでいる者がいる。歴史の勉強は、歴史の流れとその背景を学ぶことだ。

格差はどこで生まれた?軍国主義の中で育った一日本老人の感慨である。

2016年3月5日 愛媛新聞へんろ道掲載

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小さくなれ

「千里の堤も蟻の穴から」は、一般的には堅牢な構造物も小さな欠陥から崩壊すると、悪い方の例えに扱われる言葉だが、私は逆の意味でも使えると思っている。

古来中国で歴代皇帝が最も恐れたのは、蝗と流言飛語だった。このどこからともなく飛来する小さな虫の前に、どんな権力も無力だった。蝗の前には、大地の全てが一変した。

新中国も蝗が作った。中国共産党の政治局員はまさにその蝗だったのだ。

先日NHKテレビで、中国の環境問題を扱っている番組を見た。汚染の実態。原因となった経済発展。その間に介在する腐敗。抵抗する市民団体。それらを赤裸々に報道していた。

中国共産党が外国のメディアを使ってまで蟻や蝗に手を貸す必要に迫られたのか、堤は崩壊しないという体制への自信か。どちらにしろ腐敗と環境が、目下の大問題であることは間違いない。

それが市民運動という、もう一つの中国の恥部、人権問題の危機を孕んだまま、番組は淡々と報道されていた。

少し私も自信を持ったことがある。私は日中友好という問題を大きく振りかぶりことは出来ない。しかし目の前の一人の人の心の襞に入り込むことは出来る。

小さくなれ、小さくなれ、小さくなって蟻さんになれ。

 

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マンモスの牙

どこの国の軍隊とは言わない。戦わない軍隊の観兵式は、人類最高の美の祭典だ。

どこの国の兵器とは言わない。殺さない兵器は、人類最高の叡智の結集だ。

マンモスはかつて、その巨大で強力な牙を武器として、地球上に君臨した。最期はその牙が負担となって地球上から姿を消した。

どこの国の軍備とは言わない。体力を越えた牙が、庶民の生活を圧迫していないか。

しかし、軍備問題はそれほど簡単ではない。

どこの国の産業とはいわない。軍拡が見かけ上のGDPを押し上げていないか。悲しいが兵器は、一部の人達にとって儲かる商売だ。市場の確保即ち軍備の拡張には大義名分「危機」が要る。

中国語の勉強のため、テレビは一日中付けっ放している。私の見るチャンネルが偏っているのだろうか。ニュース報道を主に見ているのだが、シリア、イラクの内戦、日米韓の演習、自衛隊の上陸演習、ナト、ロシアの演習。自国の演習、それに尖閣、台湾海峡、北朝鮮、南海問題となると、平和ボケした頭では、世界がキナ臭いことを今さらのように知る。

その間を縫うように、富国強兵を賛美する子供の歌が流れる。それも結構だが、願わくば、戦わない、殺さない楽しい軍隊であって欲しい。文明大国中国に、マンモスの牙は似合わない。

 

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「一帯一路」

今中国のメディアを連日賑あわせている言葉である。意味は意訳だが、「共に歩もう」とでもなろうか。中身は、「アジアとヨーロッパを中国主導で結ぶ、経済圏構築」を目指す、現代版シルクロードとでも言うべき壮大な構想である。

すでに、陸路は重慶から西ドイツまで鉄路で繋がっている。

海のシルクロードの一部に、今問題の南海諸島が横たわる。以前本欄で「歴史の流れ」と題し、中国の富国強兵策を「強くなって武力で横車を押したら、それが覇権だ」と否定的に紹介したことがある。

同じことを裏の面から。「豊かになって近隣諸国と仲良くする」と表現したらどうなる。事実この問題で話し合いのテーブルに付いている関係国首脳は、「元」の魅力の前に満更でもなさそうだ。

かつて「経済は、人と人との関係にあり」と喝破した経済学の大家が居た。グローバル化した現在「経済は国と国との関係にあり」と言えないだろうか。いくら自国中心の経済といっても、一人勝ちは出来ない。たかだか建国200年余りで世界に覇を唱える新興強国と違って、4000年の歴史を持つ文明古国の外交は、したたかで老獪である。

なまじ金を使ったばかりに、「札束で頬を叩いた」との誤解を受けるような愚もしない。

 

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 恣意と人治

孟子曰く「妄りに婦女子の手を握ってはならない。但し溺れているのを助けるときはその限りにあらず」。その後「権力においてまた然り」と続くのである。

権力の恣意行使の例外。それが腐敗なら中国の腐敗は孟子公認か。

昔は、日本円で100万というせこい?収賄で、死刑が相場だった。

 それが、最近の中国の汚職の規模は、小国の国家予算規模まで巨大化している。

 先日、街角で夕刊を求めて来た。意地悪く汚職記事を期待したのだが、それが肩透かしを食らったように無い。僅かに三行記事で、ある地方の党の規律委員会の審査を受けている記事が載っていた。習近平体制の下汚職は無くなったのか?消えたのか?

 思い出すのが、昔漫才の中で使われていた「大東亜共栄圏」というギャグである。贈賄側と収賄側と、「俺達は大東亜共栄圏だ」と言うとき、それは同じ穴の貉を意味している。

 率直に言わせて貰う。一小市民とし関係部門の責任者即ち小さな権力者と向かい合ったとき、彼らの「恣意」に戸惑うことがある。

 この許認可の回りにある一見善意の「恣意」即ち「人治」こそが中国の汚職の本質だ。

 恣意で作られた困難を「関係」という「恣意」のコネの鍵を使って助けて貰う。

あらゆる権力は腐敗する。権力が巨大化するほど、「恣意」も巨大化していないか。

 貉は巨大化するほど、深く潜っていないか。

 「悪い奴ほどよく眠る」のは、中国だけではないかもしれないが。

 

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ソクラテスの悩み

 痩せたソクラテスは、自由を愛する。しかし飢えたソクラテスは自由を捨てる。死んだら元も子も無いから。

 新中国は、飢えたソクラテスによって作られた。10億になんなんとする国民の多くが、飢餓線上にあったのは、それほど昔の話ではない。

 それが社会主義経済の下で、貧困、温飽(なんとか食べられる)小康(中流)、富裕、と着実に経済発展をとげ、日本を目標とした小康の水準も目の前まできた。今や肥満児ソクラテスの新しい悩みは、腐敗である。

 この悩みの先に何があるのか、永遠に登り続けることが出来ないのは分かっていても、例え崖淵が待っていても登り続けなくてはならないのか。ゆっくり下りる道はあるのか。

 「合久必分」合うこと久しければ必ず分かれる。三国志以来の歴史の必然を前にして、

 一つの中国を持ちこたえるための、目下の大きな課題である。

 翻って我が国は如何。経済大国ともてはやされていたのは、過去になったのか。捨てきれない夢の中で、自由を標榜する奢るソクラテスによって、リベラリストが堂々と排除されていた。

 

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 街の哲学教授

 タクシーの運転手さんは、日本も中国も大体話し好きである。

 彼らは仕事柄、話題も豊富だし、知識も見識もある。

 特に中国の大都市の運転手になるためには、運転以外の試験もあり、インテリが多い。

 二人だけの空間では、政治的な話題もむしろ歓迎される。

 ただ私の中国語では、議論にはならない。まず自分の意見をはっきり言って、あとは教えを請うといった態度で接すると、彼らもしっかりした意見を返してくれる。

 先日久し振りで北京でタクシーに乗って、日頃気になっている中国の汚職の天文学的数字の大きさについて話題にしてみた。

 私「中国の汚職は凄く大きいですね。私の見方は偏っているかもしれないが、あれは一種の内戦だと思っています」

 彼「汚職は何処の国にもあります。汚職を内戦というなら、日本の汚職がらみの政権交代は内戦ですか?」と、噛み合わない。

 私「重慶の汚職はもの凄かったですね」

 彼「あれは汚職でない。政治闘争です」

 私「政治闘争とはうまいことを言う。一国を動かす規模の汚職はやはり内戦でしょう」

 彼「内戦という言葉が私にぴったりしなかったが、そうも言えますね」と、暫し沈黙の後、同意してくれた。

 静かに話すと、彼らは評論家というより哲学教授だ。

 

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後悔

我が酒は 後悔を横にはべらせて 独りじくじく 飲むぞ楽しき

こう書くとなにか根暗のようだが、実は私は割り切りが早い。というより割り切りに逃げて後悔はしない。

こんな私でも、80年生きると立派に生きたとは思わないが、それでも多くの人の運命に少なからず関わってきた。「もし私が居なかったらこの子はこの世に居なかった」と言える子が、子供や孫以外にも居る。不倫の子という意味ではない。例えば留学の世話等で、その人の運命に深く関係した人のこと等である。それ以外にも小さなお世話が、大きな結果に繋がったことはある。

勿論、当人達は殆ど知らないだろう。私の人生にもあるはずだ。私の知らない所で私の運命に関わるお世話をして下さった人達が、私の知らない所に大勢居ても不思議はない。

私は、別の人生を想像するだけで恐ろしい。もし私が別の人生を歩んでいたら、私が関わった人達も皆存在すらしなかったはずだから。

後悔は運命の神に対して不遜である。我が人生感謝こそすれ悔いは無い。

 それでも、小さなことはいつまでもくよくよする。なんであんなことを言ったのだろう。もっと優しく出来なかったか。

胸の刺は、小さいほど痛い。酒で癒すには良い肴だ。

 2015年2月5日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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諸行無常

 日本語の授業で、「いろは歌」の説明をした後だった。「何か質問はありませんか?」と、いつもの言葉を言ったら「先生は死ぬのが怖くありませんか?」と思いがけない質問が来た。

 私もどっきりして「死ぬのが怖くない人はいますか?死なない人が居ますか?」と、少し鼻白んだ返事をしてしまった。

 それにしても、いろは歌の無常観が理解できるとは、良い感性をしているなと、思ったのだが、どうも質問の趣旨は違ったようだ。

 最近風邪を引いた。授業の前に鼻水を流していたら、「先生病院に行って下さい」と生徒が言うのを聞き流して、日本の保険の話をした。どうもそっちの話の続きだったのだ。

 強く病院行を勧めてくれたのが、子供達の語学力ではこういう表現になった。

 哲学的瞑想にふけるまでもなく、死は年とともに秒読みに入っている。死も恐怖だが、「命余って金足らず」が更に怖い。三途の川の渡し賃は六文だが、それまで幾ら要るのやら。

 よって、25年前の退職金の一部を僅に蓄えているのが、高額所得高齢者とみなされたのか、年金の減額通知と保険料の増額通知が来ていた。

 諸行無常の「金」の声が老骨に沁みる。

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 和気致祥

 久し振りに日本に帰って、まず思うのは、乗り物の中が静なことである。

 車内放送で、携帯電話の使用注意が流れる。

 携帯電話は話す為の物だったと思うのだが、電話一つにもこれだけ気遣いをして作られた静寂の中で、却って気疲れがするのは、私の神経が中国化したからだろうか?

 中國のバスに乗ってまず感じるのは、中国人の声の大きいこと。

 携帯電話の声が、端から端まで響き渡る。通学の児童が一斉に乗って来ると、まさに蜂の巣をつついた騒ぎ。年寄が何か独り言をぶつぶつ言っている。子供がむずかると、回りの人達が競うようにあやしている。

 久しぶりで聞く子供の泣き声というのは良い物だ。この生命の騒音の中で、却って癒されるのは、私の神経がすっかり日本化したからだろうか?

 中国化した神経と、日本化した神経はときにせめぎ合う。

そんなとき最近良いおまじないを覚えた。

「誰のせいでもありゃしない、みんなおいらが悪いのさ♪」この歌を口ずさむと、そんなことどうでもよい気になって、不思議に心が和む。まさに「和気致祥」和んだ気持ちが吉祥を招く。

2016年11月6日 愛媛新聞へんろ道掲載

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直線と社会

職場の都合で、瀋陽北の郊外に引っ越しした。この辺は新興の住宅街で新築のビルが建ち並ぶ。

 

 寝室のベッドに横たわり、窓枠に切り取られた風景からそのビル群を眺めながら気がついたのだが、ビルの壁面が互いに平行でない物がある。肉眼で観察した感覚的なものに過ぎないが、ピサの斜塔までいかなくても、あきらかにどちらかが垂直でない。

 

 私のアパートの部屋は築5年未満の新築である。書架を購入して据え付けだのだが、まっすぐ立たない。フロアレベルが、素足の足裏にボコボコと感じる程違う。その傾きは、硬貨4枚ずつを二カ所にスペーサーとして挿入して直った。原始社会に存在しない物は直線だ。直線の精度を保つ技術は、原始社会からの時間的距離の尺度と言えないだろうか。

私は。法律は社会を規範する直線定規だと思っている。中国も近年六法が整備されて、一応法治国家である。しかし長い人治社会の歴史の中で、中国の定規は、運用面で人間的なカーブを持っている。そのカーブを補うスペーサーが庶民の知恵。

私も「七十にして、心の欲するところに従えど、矩(のり)を踰(こ)えず」の孔子の境地には至らないが、矩を踰えないスペーサーは用意したい。

2017年10月22日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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 人生春夏秋冬

 私の春の記憶は、少年期の旧満州に始まる。

10才で終戦。母と妹の死。13才で引き揚げて、中学校は、満州本州九州四国と親類の間を転々として卒業。17才、高校を中退。金の卵として、戦後復興経済に参加。この短い春は、今でも一日単位でページがめくれる。

 その後40年。馬車馬のように働いた夏。

 体は赤銅色に鍛えられたが、心はぽっかりと空洞が空いたままだ。

 定年を待ちかねて、57才で早期退職。帰巣本能にかられて、中国へ。その後27年。これを人生の秋というなら、私の錦秋は恵まれていた。現在形で恵まれていると言うべきか。沖縄から北海道の自転車旅行、寧波から西安を始めとする、中国自転車の旅。

 囲碁の交流、尺八の交流、日本語の教え子達、その他なんとなく知り合った人達で豊作だ。

 平均寿命をクリアしたおかげで、これからは人生の冬景色も楽しめそうだ。

 「赤いレンガにしんしんと降る雪・・・」これは私の青春を閉じる心象風景だが、それは又老いと厳粛に向き合う風景でもある。

 共にそれを見る人は、既に去って十三回忌。

 人生の冬景色は、一人で楽しむ物か。

 2018年1月28日 愛媛新聞へんろ道掲載 

 

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 仙人の悩み

 少し珍しい人が瀋陽の我が家に訪ねて来た。彼女はある志を持って来日したのだが、志ならずソフト関係のエンジニアと結婚してカナダへ渡った。来日のとき、お世話させて頂いたご縁で、その後どうしているかと気になっていたのだが、仙人になる修行をしていると言う。

 「仙人になったら、120歳まで生きられます」と、私にも修行を勧める。

 「仮に120歳まで生きたとして、後38年か」と私が独り言のように呟いたところで、暫し間が生じ、この話はここで終わった。別に彼女の話の腰を折るつもりで、呟いたのではない。

 人生は、ある意味「執行猶予付きの死刑判決」を受けた身で日々を過ごしている。仮にその執行が38年後と宣告されるのがいいか、例え明日としても、執行猶予で不明のままの方がいいか。仮に明日執行と宣告されたとき、その一日は不明のままの38年と、どちらが重たいか。

 人も仙人も必ず死ぬ。別の表現をしたら、私の人生の成長曲線は、横軸を残りマックス38年として、間違いなく減衰振幅線上にある。

 彼女がわざわざ遠くカナダから中国まで私を訪ねて来たのは、家庭的な問題で帰国したついでだった。仙人にも悩みは有るようだ。然し仙人の世俗な悩みは、世俗に生きる私に仙界の悩みを考えさせてくれた。

2017年9月17日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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生命とコンピュータ

私は囲碁が好きなのだが、最近AIが世界のトッププロをなぎ倒したニュースは衝撃的だった。60連勝というのは単純に確率の世界ではあり得ない勝率だ。

AIの開発者は、人間と囲碁を打つのはこれを最後にして、これで得た技術を応用して今後は医療や他の分野に進むそうだ。

コンピュータはどこまで進歩するのか。しかしこの目覚ましい進歩も、後の歴史家は、マルコニーの無線電信の発明からインターネットの発明まで、一ページしか割かないのではないだろうか。即ち「人類はエレクと二クスを利用した情報伝達の手段を得た」と。

二足歩行、火、弓矢、農業、印刷機、コンピュータは、それぞれに人類の歴史で大きな節目を作った。しかしコンピュータが人類最期の節目だとはとても思えない。

コンピュータそのものは、もう少し進歩するだろう。脳波で制御されるマイクロチップもそれほど奇想天外な世界ではない。

全ての人間が認知出来て、誰も答えを知らない世界。生命とは何か。死とは何か。

人は何処から来て何処へ去るのか。人類はこの答を求めて、何も得られないまま消えるのではないだろうか。

いやいや、既に知っているのかもしれない。釈迦、キリスト、マホメット、老子等の天才は、知っていたかもしれない。

そして私は?幸いに何も知らないから迷いも知らない。何も知らない世界から来て、何も知らない世界へ帰る。

2017年6月25日 愛媛新聞へんろ道掲載

 

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和製漢語

「普利司通补胎」この判じ物みたいな文字は、瀋陽のある自動車修理工場の看板にあった。「ブリヂストンタイヤ」のこと。

「石橋」が「BRIDGESTONE」になり、その中国語の音読みが先の判じ物になった。

日本語→英語→中国語というこのような例は、他にあまり知らないが、日本人が西洋の言葉を、漢字を使って翻訳して漢語にした物所謂和製漢語と言われる物は、「政治」「経済」「物理」など、一説によると少なくとも700から2000有ると言われている。

幕末から明治にかけ、文明開化の中、西洋の先進技術と思想を積極的に取り入れた先人達は、「和魂洋才」で多くの功績を残した。それが中国へも反映したのが、「和製漢語」である。

そもそも「社会主義人民共和国」の「社会」も「主義」も「人民」も「共和国」も全部そうだ。毛沢東もこの面には肯定的で、「外来語が中国語の文学的表現を豊かにする」と積極敵な支持派だった。

毛沢東は別の場で、「革命は日本軍のお陰で成就した」とも言っている。

旧弊を打破する国内を結集する為には、抗日のエネルギーも又利用し、それが貢献したという客観的見解だ。良い面も悪い面も、日中は深く関わっている。